レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年10月13日
- 登録日時
- 2015/11/13 00:30
- 更新日時
- 2015/11/13 18:42
- 管理番号
- いわき総合-地域371
- 質問
-
解決
吉野せいの作品のなかに、「菊竹山で200人のアメリカ兵の捕虜が炭砿で働いていた」というような一節があるそうだが、その作品名が知りたい。
それは事実なのか、その捕虜はどこで生活し、どこから連れてこられたのかについても知りたい。
- 回答
-
作品を特定するためGoogle booksで「菊竹山 アメリカ 捕虜」のキーワードを入力して検索すると、何かのシナリオがヒットする。内容を確認すると間違いなく吉野せいの作品のようだが、作品名は不明。
Webで同じようにキーワードを入力すると、「磐城蘭土紀行」というブログがヒット。(http://iwakiland.blogspot.jp/2014/10/blog-post_22.html)[最終アクセス2015.11.8]
そこに「夫の三野混沌とせいが菊竹山の畑で(中略)捕虜の若い白人が現れた。」との記述が『洟をたらした神』にあると記載されているのを見つけた。原本にあたってみると、『洟をたらした神』(弥生書房 1980)の「麦と松のツリーと」の節に確かに炭砿の俘虜について記載があった。
本文によるとその俘虜は「炭砿の俘虜」で歩いて来ているため、菊竹山の位置から考えると、生活している場所は近くの古河好間炭鉱かと思われる。
『いわき市史 別巻2 常磐炭田』P526~528「連合国軍捕虜」の項に、古河好間炭砿にも俘虜がいた事がわかる。
捕虜については他にも、
『大日本帝国内地俘虜収容所』(茶園義男 不二出版 1986)では、P19、P23、P98に捕虜の人数や国籍など詳細あり。
『捕虜収容所補給作戦』(奥住喜重ほか 2008)では、P150に好間分所についてあり。
『近代いわき経済史考』(斉藤伊知郎 1976)では、P245「米軍用機遭難追悼碑」の項に古河好間炭砿の捕虜について記述あり。
なお、上記ブログ「磐城蘭土紀行」では、「いわき文献案内 いわき市にあった捕虜収容所の話」へのリンクもあり、Web上の資料がまとめられている。(http://iwakireference.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html)[最終アクセス2015.11.8]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 戦争.戦略.戦術 (391 9版)
- 評論.エッセイ.随筆 (914 9版)
- 参考資料
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- 【資料①】『洟をたらした神』[K/914.6/ヨシ・1110079900]
- 【資料②】『いわき市史 別巻2 常磐炭田』[K/210.1-1/イ・1110038633]
- 【資料③】『大日本帝国内地俘虜収容所』[391.4/ダ・1110952684]
- 【資料④】『捕虜収容所補給作戦』[K/210.7-1/ホ・1111963433]
- 【資料⑤】『近代いわき経済史考』[K/332/サ・1110055041]
- 【資料⑥】Web「磐城蘭土紀行」
- 【資料⑦】Web「いわき文献案内」
- キーワード
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- 吉野せい
- いわき 文学
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000183700