「大岡政談」の成り立ちについては、①『大岡裁きの法律学』に記述がある。大岡越前守忠相は、法規の文面や形式に拘泥せず、融通性や機知に富み、人情味にあふれ、公正・明快な裁判を下した名奉行(名裁判官)であるとされている。その裁判物語を集めたのが「大岡政談」である。ただそのほとんどすべては史実ではなく、いわば作り話である。比較的広く流布している大岡裁きは、明治29年『帝国文庫』に輯録された「大岡政談」16篇とされているが、その中で実際に大岡忠相が町奉行をしていた享保時代に生じた事件を題材としているものは3篇にすぎず、実際に担当したものは1篇のみである。しかも、その内容は、史実とはすっかり変えられてしまっている。「大岡政談」として伝えられている数々の裁判物語は、幕末あたりに講釈師によってまとめられたが、一説によると、全部で87話あり、そのうちの25話は先行作となんらかの関係が認められるそうである。先行作とは、中国・宋代の名裁判物語集である『棠陰比事』や井原西鶴によるその模擬作『本朝桜陰比事』(元禄初頭)、さらにこれを模した『本朝藤陰比事』(宝永年間)、あるいは17世紀初頭から半ばにかけて京都所司代を務めた板倉伊賀守勝重および周防守重宗父子による裁判の形式をとる『板倉政要』(元禄以前の作とされる)等の「捌きもの(裁判物)とよばれるジャンルの物語であり、それらが大きく「大岡政談」にとり入れられているとされる。たとえば、「実母継母の子供争い」という物語は、外国の裁判物の翻案であると考えられている。まず、『棠陰比事』にその原拠となったとみられる話が載っており、さらに時代を遡れば、旧約聖書の列王紀略上巻第三章にソロモン王の裁判として同じような話が見えるとある。
外国の物語の翻案をはじめとして、板倉父子や他の当時名奉行といわれていた者たちの事蹟が、大岡越前守一人の業績としてすりかえられたわけであるが、彼の実際の人物像や、名裁きとされる物語がそれと関係のない彼の業績とされた理由は大して問題ではなく、重要なのは、それが長く好意的に語り継がれているということである。すなわち、「大岡政談」の原拠となる物語を多く輯録するとされている『棠陰比事』は、13世紀初頭に刊行されているが、その500年有余の後の異国であるわが国においても、同様にこれが裁判の理想とされていたとみて間違いはない。との記述がある。
②『江戸のお裁き』にも、①とほぼ同様の記述がある。国文学者の麻生磯次氏によれば、「大岡裁き」と呼ばれる数々の忠相による名裁きは、いずれも中国の古典の模倣だったり、『板倉政要』や『本朝桜陰比事』、『本朝藤陰比事』といった我が国の先行作のマネに過ぎないのだと主張する。たとえば、「大岡裁き」で有名な「実母継母の子争い」は『『棠陰比事』』に同じような内容が収録されているし、「石地蔵吟味の事」も『包公案』に同じ話が載録されている。
大岡裁きのうち、実際に存在したのは「直助権兵衛事件」、「天一坊事件」、「白木屋お駒事件」だけだということである。しかし、「直助権兵衛事件」は『大岡政談』とはかけ離れており、裁いた奉行も忠相ではなく、北町奉行の中山時春だった。では、なぜ忠相は名奉行に仕立て上げられることになったのか。忠相は将軍吉宗の指示を受け、小石川に幕府の養生所(無料診療所)を開いたり、火事対策として多数の火除地を新設して庶民の避難所を作った。また、庶民による町火消という消防隊を作ったのも忠相の業績だった。加えて忠相は庶民の連座制を廃止している。史実の大岡忠相は、町奉行という官僚としてはすぐれてはいたが、歴史に残るような名裁きなどは全くしていない、とある。
③『江戸の名奉行』にもほぼ同様の記述がある。