レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2020/12/04 13:00
- 更新日時
- 2020/12/11 13:45
- 管理番号
- 181
- 質問
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解決
神戸市中央区にある安養寺が尼崎藩主青山家の墓所となった経緯と、墓所の発掘によりあきらかになった副葬品について知りたい。
- 回答
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神戸市中央区の大倉山に所在する安養寺には、尼崎藩青山家第2代藩主青山幸利(よしとし)と、第3代藩主青山幸督(よしまさ)が葬られています。幸利は生前、尼崎藩領であった八部郡坂本村の大倉山の景色を好み、この山上への埋葬を願っていたので、貞享元年(1684)に没すると、遺言通り大倉山に葬られました。貞享3年、その菩提寺として、尼崎城下の大物(だいもつ)にあった安養寺(如来院末寺)が、大倉山山上の墓所に移されました。
明治期になり、神戸市が大倉山公園を開設するにあたり、山上の安養寺境内地は買収され、山麓の現在地に移転しました。この移転にともない、大正元年(1912)10月15日、幸利・幸督の墓地も改葬され、多くの遺品が副葬品として発掘されました。
これらの遺品は、青山家から安養寺に寄贈され、発掘された外棺から作られた箱に納められ、寺宝として安養寺に伝来しています。刀身と鞘が揃った完形の懐剣や、幸利の柄鏡のほか、刀身・鞘が残っていない二口(ふたふり)分の打刀鍔・目貫・笄・小柄・下緒・縁頭などの刀装具が、良好な状態を保っていました。加えて、幸利・幸督それぞれ一つずつの蒔絵の印籠、幸利の義歯や老眼鏡のレンズ、幸督の花押印(木製)など、故人が日常使用したものも含まれています。
大正元年の幸利・幸督墓の発掘は、遺体が完全な状態で出土したことで話題になり、当時アメリカのサンフランシスコで発行されていた新聞 "San Francisco Call" に、東京発のニュースとして「日本のミイラ化技法のスゴ技が明らかになった」という見出しで報じられています。
- 回答プロセス
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1 安養寺が青山家墓所となった経緯について記す文献
◆『尼崎地域史事典』/Web版『尼崎地域史事典』apedia
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
「安養寺」の項目
2 墓所の発掘や副葬品についての記録
◆“San Francisco Call”1912年12月15日(”California Digital Newspaper Collection”)
◆安養寺所蔵、青山家墓副葬品写真
「尼崎をいろどる人々」展に出品された際の撮影写真画像
◆安養寺所蔵「青山幸利・幸督墓発掘時発見遺物収納箱」箱書き
上記副葬品写真に画像がある、発掘から遺品の安養寺への寄贈、棺材から収納箱を作った経緯などを記す
【関連するレファレンス事例】
あまがさきアーカイブズ 管理番号167
「尼崎藩主であった戸田家・青山家・(桜井)松平家3家・歴代12人の墓所を調べたい。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000259274
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 工芸 (750)
- 通過儀礼.冠婚葬祭 (385)
- 参考資料
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- "San Francisco Call"1912年12月15日 (California Digital Newspaper Collection)
- 安養寺所蔵、青山家墓副葬品写真 (あまがさきアーカイブズ所蔵写真332-6)
- キーワード
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- 尼崎藩主墓
- 安養寺
- 青山幸利
- 青山幸督
- 懐剣
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000290278