レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/10/6
- 登録日時
- 2011/10/06 16:52
- 更新日時
- 2012/08/29 10:46
- 管理番号
- 秋田-1344
- 質問
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未解決
亀田藩の家臣で“大館”の姓から“岩城”の姓を名のるようになった人がいると聞いている。その人の4男が先祖のようだ。正念寺に墓がある。その子孫が明治以降、それぞれどこにいて、どうしているか知りたい。
- 回答
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「秋田人名大事典」の大館の項を見ると、大館釣雪→岩城八百之助とある。“岩城八百之助”(いわきやおのすけ)の項には、学者として、“大館釣雪”(おおだてちょうせつ)の名で知られたとある。
「三百藩家臣人名事典 1」p284,285(亀田藩)には、八百之助について、“のち大館釣雪と称す”とある。また、亀田藩家老であった“岩城隆済”の項には、八百之助の長男であるということと、“父八百之助が久保田退去事件にからんで剥奪された岩城姓と「隆」一字を再下賜され、家格も一門に復して…”とあり、墓が正念寺にあるとのこと。
「亀田の人と家」p2には、“秋田退散事件の首謀者”として、八百之助の項目あり。
“秋田退散事件”とは、亀田藩の財政難を憂え、藩政のあり方に不満を抱くものが多かった中、岩城帯刀、大内図書、八百之助の三人が代表して藩主に意見書を出すも、受け入れられず、盟士とともに、秋田藩に5年間身を寄せることとなった。
八百之助は、その後、学問を修め、藩校長善館の学頭に登用された。
この間の経緯については、「亀田郷土史 上巻」p70~に記載あり、
「岩城町史」p126~には、“秋田退散事件”として記載ある中に、岩城八百之助の肖像画もあり。
また、この事件についての研究論文として、「羽後亀田藩家中脱藩騒動の研究」(福山大学一般教育部紀要)
がある。
家臣の名簿としては、「亀田藩分限帳・御侍中順帳」には、岩城、大館姓はある。
また、公文書館所蔵の古文書として、系図があることと、系図目録は県立図書館に所蔵あることを伝えた。
質問の明治期以降の子孫の動向については、確認できなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 伝記 (280 8版)
- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 日本史 (210 8版)
- 参考資料
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- 「三百藩家臣人名事典 1」 1987 新人物往来社
- 「亀田郷土史 上巻」 1933 亀田町
- 「秋田人名大事典」 1974 秋田魁新報社
- 「岩城町史」 1996 岩城町史編集委員会
- 「羽後亀田藩家中脱藩騒動の研究」 2000 吉永昭
- 「亀田の人と家 第一巻」 1963 和田汀史 城門の会
- 「系図目録 1 2」 2001 秋田県公文書館
- 「亀田藩分限帳 天和2年」 1955 亀田公民館郷土史会
- 「亀田藩分限帳・御侍中順帳」 1978 岩城町教育委員会
- キーワード
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- 亀田
- 岩城
- 秋田退散事件
- 岩城八百之助
- 大館釣雪
- いわきやおのすけ
- おおだてちょうせつ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000092007