レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年07月13日
- 登録日時
- 2013/11/20 14:25
- 更新日時
- 2014/02/05 13:55
- 管理番号
- 埼熊-2013-070
- 質問
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解決
石田三成が忍城を水攻めにするより前、上杉謙信が丸墓山(埼玉県行田市)に登り「忍城を水攻めにしたらよいのに」と言ったという説がある。上杉謙信の軍師宇佐美某が、それはやめた方がよいと言ったという。
この宇佐美某が書いた謙信の軍記物(史料名不明)以外に、史実としてわかるものがあるか。
- 回答
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以下の史料には、水攻めを諌める記述があった。
『成田記』(小沼保道〔編述〕 石島儀助編 今津健之助 1940)
p36「自ら丸墓山へ登り栖楼を掻揚げよくよく城中を観察し、兎に角に此城は尋常の軍法にては陥べからず。一体窪地の城なれば所詮廓外の村里を焼払い、水責にして人馬一同に殺べしと下知せらる。此時宇佐美駿河守定勝(北越の軍師也)進出て申けるは、仰尤には候へども、当城は四方平地広ふして水を以責るには中々に其備へ容易の事に有べからず。若数日を経内北條氏康後援あらば、却て味方に害あらんか、此儀御高察有りたしと押止置、(後略)」とあり。
『成田記』(小沼十五郎保道著 大沢俊吉訳・解説 歴史図書社 1980)
p52-53「自ら丸墓山に登り、楼を立てて登り、よくよく城中を観察し、この城は尋常の軍法では落ちない。窪地の城であるから、城外の村里を焼払い、水攻めにして人馬一同に殺すべしと命令した。この時北越の軍師宇佐美定勝は、尤もな御考えであるが、この城は四方平地が広く、水攻めは容易でない。数日かかっている内に、北条氏康の援軍が来ると、その時は水攻めは不利になると進言した。(後略)」
以下の史料には敵に姿をさらし標的になることを諌める記述があった。
『関八州古戦録 史料叢書』(槙島昭武〔原著〕 中丸和伯校注 新人物往来社 1976)
p85-87「上杉景虎武州忍城攻の事」に、宇佐美定行が上杉景虎を諫めた記述があるが、忍城を水攻めにすることを諫めたのではなく、「小器のために大切の命を捨給ふへきかと甚だ歎(ヒ)て諫しとかや。」とあり。
『戦国史料叢書 第2期8 上杉史料集』(人物往来社 1966)
p253-256「北越軍談 巻13」に以下の記述あり。
「古老の説に曰。此時宇佐神(美)入道定行申けるは、源九郎義経八島の磯にて弓を流し、(中略)諫言せしも、必竟主将の用意細瑾を顧ず、命を全するを本と致すが故。(以下略)」とあり、宇佐美が諫めた様が見られる。
p336「北越軍談 巻19」に「公は埼玉村へ打越、丸墓山に騰り玉ひ、地蔵堂より城中を観察有て、“兎に角此城輙は陥べからず。所詮郭外焼払て浸責にせよ”と宣ひ、下忍・持田・前谷・渡柳、川面の村々片端より火を放て、水責の支度を課さるを見て(後略)」とあり、謙信が丸墓山から忍城を見た記述あり。
ただし上杉謙信の軍師、宇佐美定行は架空という説あり。
『軍師・参謀 戦国時代の演出者たち』(小和田哲男著 中央公論社 1990)
p207-208に「宇佐美定祐は米沢藩上杉家に召し抱えられていた軍学者で、『越後軍記』『北越軍記』を著わすなかで、上杉謙信の軍師として宇佐美定行なる人物を登場させているのである。しかし、この宇佐美定行は架空の軍師であった。」とあり、『関八州古戦録』『名将言行録』の記述は、架空の人物であることを見抜けなかったものとしている。
p209に「仮にこの宇佐美駿河守定満が宇佐美駿河守定行のことだとしても、軍師であったことを証明する史料は一点もないのである。」とあり。
- 回答プロセス
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忍城から調べる
『目でみる行田史忍城物語』(大沢俊吉著 行田市 1973)
p56「三成の水攻めより三十年前に、上杉謙信が忍城を攻め、忍城は容易に攻め難いので、やはり水攻めを考えたが、謙信の軍師、宇佐美駿河守定勝は、忍城は水攻めしても、地勢は不利であると、謙信に思い止めさせたというが、(略)ともあれ、上杉謙信と石田三成が、丸墓山の上から忍城をながめ、水攻めを考えたのは史実である。」出典不明、参考文献なし。
『忍城ものがたり』(大沢俊吉著 行田市郷土文化会 1971)
p5「一五五九年謙信は再び忍城を攻め、丸墓山に陣し、策を廻らしたが、望遠するや忍城は堅固なので、長野、下忍、渡柳、持田の民家を焼き、和睦をせまり、遂に謙信の門に下らせた。」とあるが、出典不明、参考文献なし。
『行田・忍城と町まちの歴史』(大沢俊吉著 聚海書林 1983)
p246「行田市年表」一五五九(永禄二年)「謙信丸墓山に登り忍城をながむ」(八志)とあり。
『北武八志』(清水雪翁著 歴史図書社 1979)
p200「丸墓山」の項に「永禄三年上杉謙信忍城を攻めんとて先づ此塚に登り城中の要害堅固なるを察し馬を戻して羽生、須賀の二城へ向ひしと 又天正中の戦争には石田三成この塚上より城内を望み地理を察して水責を為せりとさもありしにや(風土記)」とあり。
『新編武蔵風土記稿 [第3期]11 大日本地誌大系 17』(蘆田伊人編集校訂 雄山閣 1977)
p34「丸墓 西行寺境内に丸墓山あり よりて小名となるにや、」との記述あり。
「宇佐美」から調べる
『上杉謙信大事典』(花ケ前盛明編 新人物往来社 1997)
p44-45〈宇佐美定祐〉の項に、「父の宇佐美良賢は、謙信の軍師定満の兵法として神徳流、宇佐美流を水戸藩において講じている。」とあり、定満が謙信の軍師であったことがわかる。
p45〈宇佐美定満〉の項に上記のような記述なし。
p45〈宇佐美定行〉の項に「上杉謙信の軍師といわれたが、詳細については不明である。」とあり。
『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編 新人物往来社 1987)
p142〈宇佐美定満〉の項から謙信に従ったことはわかるが、忍城や謙信を諫めた記述はなし。
『軍師・参謀 戦国時代の演出者たち』(前掲)
『定本名将言行録 上』(岡谷繁実著 新人物往来社 1978)
p324-328に〈宇佐美定行〉の項あるが、忍城水攻めや謙信を諫めた記述なし。
『新編上杉謙信のすべて』(花ケ前盛明編 新人物往来社 2008)
p238「上杉謙信関係人名事典」に「宇佐美定満」の項があるが、水攻めや謙信を諫めた記述なし。
『桂月全集 2 紀行』(大町桂月著 日本図書センター 1980)
『関八州古戦録』と同様の記述あり。
「上杉謙信と宇佐美定満」(戦国歴史研究会著 PHP研究所 2009 県内公共図蔵)
p22-30「序章 「軍師」宇佐美定満の謎を解く!」に以下の記述あり。
p29-30「この男(宇佐美定祐)が、『北越軍記』『越後軍記』といった「名軍師・宇佐美定満」が定着する軍記物を「創作」する。その意図については、当時主流だった甲州流(信玄流)の軍学に対抗して信玄の好敵手だった謙信の事蹟を顕彰し、そこに自分の祖先という事で曾祖父の定満を名軍師として飾り付け、それによって越後流軍学者としての背景を権威あるものとしたい、という栄達欲・虚栄心もあったのだろうか。」「上杉家は当主の早世などで(中略)藩の財政は破綻し、領地を幕府に返上しようとさえしたほどで、(中略)上杉家の誇りは地に墜ちていたのだ。宇佐美勝興・定祐の父子は上杉謙信の軍記物を創作し続け、「越後流軍学」をアピールした。これは上杉家にとっても心強く、「会社更生」状態の家中のモチベーションを保つ唯一の拠りどころとなった。」
軍記物から調べる
『戦国史料叢書 第2期8 上杉史料集』(前掲)
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『成田記』(小沼保道〔編述〕 石島儀助編 今津健之助 1940)
- 『成田記』(小沼十五郎保道著 大沢俊吉訳・解説 歴史図書社 1980)
- 『関八州古戦録 史料叢書』(槙島昭武〔原著〕 中丸和伯校注 新人物往来社 1976)
- 『戦国史料叢書 第2期8 上杉史料集』(人物往来社 1966)
- キーワード
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- 上杉 謙信(ウエスギ ケンシン)
- 宇佐美 定勝(ウサミ サダカツ)
- 宇佐美 定行(ウサミ サダユキ)
- 忍城 (行田市)
- 丸墓山古墳(行田市)
- 埼玉県-行田市-歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000140794