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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)管理番号
(Control number)
埼熊-2007-079
事例作成日
(Creation date)
2007/10/24登録日時
(Registration date)
2008年01月31日 02時12分更新日時
(Last update)
2009年11月20日 16時25分
質問
(Question)
「熊谷次郎直実」について、以下のことを調べてほしい。
1 出生地は「熊谷」で間違いないか。
2 没年は、1207年で間違いないか。1208年という説もある。
3 「最近、熊谷(武蔵村岡)で亡くなったという有力な説が発表された」とあるが、京都という説もある。根 拠となった直実の手紙と熊谷説の信憑性について知りたい。 
回答
(Answer)
質問1、2について、鎌倉時代前期の熊谷市ゆかりの武士「熊谷直実」(クマガイ ナオザネ)の略伝は各系図、史書により生没年が異なり、いくつかの説がある。一様ではなく、以下の関係資料の記述を紹介する。

(1)『新編熊谷風土記稿』(日下部朝一郎 国書刊行会 1978)
 p5「直実の略伝については各系図によって年代が違ってくるが、一般には熊谷家代々系図によるので本編のそれに拠り・・・永治元年(1141)2月15日 熊谷直貞のニ男として熊谷に生る。」とあり。
 p11-12「法師の大往生」の項、没年について次の4つの説がある。
①承元2年(1208)9月14日京都東山に没す説 「東鑑」「大日本史」「国史大辞典」「武蔵武士」が典拠
②承元元年(1207)2月8日武蔵村岡に没す説 「大日本地名辞書」が典拠
③承元元年(1207)9月4日武蔵村岡に没す説 「熊谷寺蔵・法然上人一代記」「粟生光明寺縁起」が典拠
④建永元年(1206)2月8日に武蔵村岡で予告し、明年9月4日に没す。

(2)『熊谷人物事典』(国書刊行会 1982)
 p102「永治元年(1114)2月15日、熊谷直貞の二男として熊谷館に生まれる。「新記熊谷町」典拠)」とあり。
 p105-106「法師の大往生」の項に、3つの説の(上記①~③と同じ)記載があり、没年は一般に①の説とある。

(3)雑誌『熊谷市郷土文化会だより 3号』(昭和38年1月)
 p17-18「法師の大往生」に上記(2)と同じ3つの説が紹介されている。

(4)『熊谷直実』(熊谷市文化連合 熊谷市立図書館 1999 熊谷市文化連合昭和44年刊の復刻)
 p3「直実の出生」の項に、直実は永治元年(1141)2月15日熊谷の館で呱々の声をあげたとあり。
 p51-52「没年と終焉地」の項に、(2)と同様に3つの説をあげ、承元元年、承元2年説、また京都東山山麓で黒谷で没す説、武蔵熊谷(村岡)とするものなど、東鑑と法然上人行状絵伝が基ととなって分布されたという記述あり。

(5)『埼玉史談 第7巻1号 (昭和10年刊)』(埼玉郷土会)
 p76-77「熊谷直実の忌日の決定」の項に、「従来熊谷寺では9月4日と定めていたが、(中略)今回熊谷市では吾妻鏡にもとづいて9月14日を直実の忌日と決定」とある。

(6)『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会 埼玉県 1998)
 p304-205「熊谷直実」の項、生没年〔永治1-承元2.9.14〕熊谷郷(熊谷市)が名字の地とあり。「法然上人絵伝」では承元1年(1207)9月4日に往生したとするが、「吾妻鏡」では同年9月14日に京都の東山で往生したとする。享年68歳、「熊谷系図」では84歳との記述がある。

(7)『復刻 熊谷蓮生一代記』(熊谷市立図書館 2000)(原本は、葛原斎仲通 文化7年を定本とする)p16-17の解題に、先行作品を安易に書き改め本書独自の設定とあり、次の記述がある。
 p282-283「弓矢丸(直実の幼名)の誕生、出生地は洛東(京都)」
 p339「いよいよ9月4日に往生を送るなり。承元元年(1207)」
 p340「東鑑には承元2年(1208)9月17日京都東山の麓において終りを執」

(8)『熊谷市郷土文化会誌 56号 (2001年11月1日号)』
 p11-14  松岡淳一「蓮生法師の入寂の地と日時」の論考に2説あり。
 ア 承元元年(1207)9月4日武蔵国村岡にて巳の刻(午前10時ごろ) 
 イ 承元2年(1208)9月14日京都東山山麓の草庵にて未の刻(午後2時ごろ)
 アの有力な根拠は、法然上人絵伝、イの説は吾妻鏡の記載する所に拠る。・・・どちらが正しいかについては、現在までに決定的な結論は出ていないとの記述あり。

(9)『続群書類従 6-1』熊谷系図が2つある。
 p244「生年辛酉。承元3年9月14日午刻於熊谷病死。年84歳。」
 p249「承元2年9月14日死。年68歳。」熊谷で病死とある。

(10)『中世武蔵人物伝』(埼玉県立歴史資料館 2006)
 p93-87「熊谷直実」の項に、承元元年(1207)9月14日に亡くなったとの記述あり。

質問3について、「直実が1207年に熊谷で亡くなったという説」が掲載されている新聞記事および「市報くまがや」は以下の通り。
『毎日新聞 2005年2月23日 埼玉版 26面』
「熊谷次郎研究会の野口会長は、法然からの手紙を再検討した結果、1207年に熊谷で亡くなったと結論づけた」との記事あり。
『産経新聞 2005年2月22日 埼玉版 28面』
「熊谷次郎直実が亡くなったのは、1208年ではなく、1207年だった-熊谷次郎直実研究会長野口和夫さん(同市在住)が直実あての手紙などか現存する古文書から、こんな新説を導き出した。」との記事あり。
『市報熊谷 2005年2月号』
「直実1207年没の根拠」として手紙文の一部が掲載されている。
回答プロセス
(Answering process)
資料展示目録『没後八百年熊谷次郎直実』の紹介文からの質問とのことで、展示目録の直実関係資料を調査して、上記該当資料が見つかった。
また典拠としてあがっている史料を確認する。
『国史大辞典 4』p862「熊谷直実」の項には、永治元年(1141)直貞の次男として生まれ、承元2年(1208)9月14日東山山麓で往生と予告し(略)往生したとある。参考文献に『大日本史料 4-10 承元2年9月14日条』、『新訂増補国史大系 32 吾妻鏡 前編』p643に直実往生の記載があり、『大日本地名辞書 6』p500-501「村岡」の項に、承元元年(1207)2月8日武蔵村岡に没(出典は「法然上人行状絵詞」)とある。
次に《埼玉関係雑誌記事索引》を〈直実〉〈蓮生〉で検索し、該当雑誌3件見つかる。
さらに《浄土宗蓮生山熊谷寺Webサイト》( http://www.yukokuji.com/  2008/01/30最終確認)に詳細な情報があることや類縁団体・機関の「熊谷次郎直実研究会」「埼玉県立嵐山史跡の博物館」をあわせて紹介した。
事前調査事項
(Preliminary research)
当館の資料展示目録『没後八百年 熊谷次郎直実』の以下の記述からの質問である。
「直実は、永治元年(1141年)に熊谷に生まれたといわれている。(中略)没年、その場所については諸説あるが、最近直実の手紙を検証の結果、建永2(1207)年、熊谷で亡くなったという有力な説が発表されている。」
NDC
個人伝記  (289 9版)
貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション  (090 9版)
関東地方  (213 9版)
参考資料
(Reference materials)
『新編熊谷風土記稿』(国書刊行会)
『熊谷人物事典』(国書刊行会)
『熊谷市郷土文化会だより 3号(昭和38年1月)』
『熊谷直実』(熊谷市立図書館)
『埼玉史談 第7巻1号(昭和10年刊)』
『埼玉人物事典』(埼玉県 1998)
『復刻『熊谷蓮生一代記』
『熊谷市郷土文化会誌 56号 (2001年11月1日号)』
『続群書類従 6-1』
『中世武蔵人物伝』
『毎日新聞 2005年2月23日 埼玉版 26面』
『産経新聞 2005年2月22日 埼玉版 28面』
『市報熊谷 2005年2月号』
キーワード
(Keywords)
熊谷 直実(クマガイ ナオザネ)
伝記
平安時代-鎌倉時代-日本史
熊谷寺(ユウコクジ)-熊谷市(クマガヤシ)-埼玉県
武士-武蔵国
郷土資料 
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
定番事例-参考資料-埼玉人物事典-解決
調査種別
(Type of search)
その他
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
個人
登録番号
(Registration number)
1000041449解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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