レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20201111
- 登録日時
- 2021/02/06 00:30
- 更新日時
- 2021/05/10 13:43
- 管理番号
- 0000201553
- 質問
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解決
明治頃、諸富~佐賀間を走っていた馬車鉄道の経路にあった「明治橋」、「馬責馬場」に関する資料はありますか。
- 回答
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次の資料に記載がありました。
(1)『佐賀市の川と橋』 佐賀市建設部管理課/編 1993
p.86 「明治橋」 場所:松原3・4丁目、呉服元、柳町の境。明治23(1890)年4月1日の『市制施行当時之佐賀市街図』にこの橋はまだかかっていない。
巻末折込地図 「佐賀市中部地域の川と橋」の中央に明治橋の記載あり。
(2)『ふるさと循誘』 江原 菅雄/編 循誘公民館 1996
p.168 「明治橋」 明治35(1960)年頃 (福島薬局北) 馬鉄の開通式が明治37(1962)年2月28日、この明治橋を始発駅で盛大に行われ、大隈重信公も出席したと言われている。
(3)『新ふるさと循誘』 「新ふるさと循誘」編集実行委員会/編 佐賀市 2012
p.20 明治37(1904)年、佐賀馬車鉄道株式会社が正式に発足した。路線は、馬責馬場(現松原4丁目)の明治橋から諸富までを1日20往復、12人乗りの客車が10数台、挽馬約20頭で開業したが、翌年には県庁前~御幸橋~佐賀駅まで延長された。
p.21 柳町では江戸藩政期より森永家によって煙草製造が行われていた。~(中略)森永作平は煙草製造から撤退し、柳町に呉服部、馬責馬場に米麦の精米麦業部を開業した。
p.24 新町名:松原3・4丁目、実施年月日:昭和43(1968)年4月1日、旧町名:北水ケ江、東松原、馬責馬場(水ケ江線道の西側・東側)
p.85 「佐賀馬車鉄道」 ルートは、片田江通りの明治橋(松原4丁目)から諸富までで、10区分けて各区に停留所をおいた。1日20往復運行、運賃は1区1銭5厘であった。昭和38(1963)年には、片田江~県庁前~龍造寺八幡宮東側(御幸橋)~佐賀駅前まで路線を延長した。
p.90 「明治橋」 明治35(1960)年 馬鉄の開通式が明治37(1962)年2月28日、この明治橋を始発駅で盛大に行われ、大隈重信公も出席したと言われている。
p.97 地図「佐賀市の川と橋」より 中央に明治橋の記載あり。
p.107 「昭和7(1932)年の地図」 中央に馬責馬場の記載あり。
(4)『佐賀市街地図 大正6年』 駸々堂 1917
佐賀警察署付近に、「馬責馬場」の記載あり。
(5)『佐賀新聞にみる佐賀の八十五年』 佐賀新聞社/編 佐賀新聞社 1969
p.61-63 佐賀馬鉄と祐徳馬鉄
※参考として以下をご案内します。
「つながるさがし」HP( https://www.tsunasaga.jp/junyu/2018/03/post-98.html )→「つながる循誘」→循誘校区の歴史と文化遺産に、馬責馬場の記述あり。 【2021.3.2確認】
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291)
- 橋梁工学 (515)
- 参考資料
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(1)佐賀市建設部管理課/編. 佐賀市の川と橋. 佐賀市建設部管理課.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I071188635-00 -
(2)江原 菅雄/編. ふるさと循誘. 循誘公民館, 1996.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I070814999-00 -
(3)「新ふるさと循誘」編集実行委員会/編. 新ふるさと循誘. 「新ふるさと循誘」編集実行委員会.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I070680636-00 -
(4)佐賀市街地図(複製) 大正6年. 駸々堂, 1917.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I070839603-00 -
(5)佐賀新聞にみる佐賀の八十五年. 佐賀新聞社, 1969.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I020702134-00
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(1)佐賀市建設部管理課/編. 佐賀市の川と橋. 佐賀市建設部管理課.
- キーワード
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- 馬車鉄道
- 明治橋
- 馬責馬場
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000293532