レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年12月04日
- 登録日時
- 2011/05/03 16:46
- 更新日時
- 2011/05/03 16:46
- 管理番号
- 9000006964
- 質問
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解決
良純(りょうじゅん)親王が、甲府市の興因寺(こういんじ)に滞在したことについて書かれた資料があるか。
- 回答
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『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年)、『山梨県史』通史編3 近世(山梨県編集 山梨日日新聞社 2006年)などに関連の記述がある。また、「峡南の郷土」第7集(峡南郷土研究会 1971年8月5日)などの雑誌や紀要にも関係論文の掲載がある。後陽成天皇第8皇子の良純親王は天皇の怒りにふれ、寛永20(1643)年湯村(甲府市)に配流、その後積翠寺(甲府市)にある興因寺に移り12年間、さらに明暦元(1655)年に薬王寺(西八代郡市川三郷町三珠地区)に移り5年間謫居した。配流から17年後の万治2(1659)年、赦免されて京都に帰った。詳細については照会資料をご覧ください。
- 回答プロセス
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1『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年)を確認。
・「興因寺」の項には「1643(寛永20)年、後陽成天皇第8皇子、智恩院門主二品良純親王が天皇の怒りにふれ湯村(甲府市湯村三丁目)に配流されたが、その後興因寺に移られ1689(明暦元)年、京都から許しが出るまで17年間住まわれた」などの記述がある。
・「良順法親王」の項にも、甲斐国配流について記述があり、その理由としては「京都島原の芸妓(ぎ)三芳野を愛され、帝のお怒りにふれたともいい、あるいは背後に政治問題があったためとも伝えられている」とある。また、「初め湯村(甲府)にご入来、積翠寺の興因寺に12年間、後に三珠町上野の河浦山薬王寺に移られて5年間、たく(謫)居された」とある。
2.山梨県内の寺院関係資料を調査すると、次のものに関連の記述があった。
・『甲斐国社記・寺記(山梨県史料』第3巻 寺院編(山梨県立図書館編・発行 1966年)41
・『甲斐百八霊場:山梨の名刹をたずねて』(テレビ山梨編著・発行 1992年)p151
・『定本・甲斐百寺:その歴史と文化』(磯貝正義ほか編 郷土出版社 1996年)p110
3.県史、市町村史誌を調査すると、次のものに関連の記述があった。
・『山梨県史』通史編3 近世(山梨県編集 山梨日日新聞社 2006年)p31-32
・『山梨県史』通史編4 近世(山梨県編集 山梨日日新聞社 2006年)p575→参考資料として「裏見寒話」が挙げられている。
・『甲府市史』史料編 第4巻 近世3(甲府市史編さん委員会編 甲府市 1987年)p748-750→「八宮良純親王甲州左遷記」(甲州文庫)ほかの資料、翻刻の記載あり。
・『甲府市史』通史編 第2巻 近世(甲府市市史編さん委員会編集 甲府市 1992年)→p119-120「八宮良純親王の甲府蟄居」の項あり。
・『甲府市史』市制施行以後(甲府市史刊行委員会編 甲府市 1964年)p1927
・『三珠町誌』(三珠町誌編纂委員会編 三珠町 1980年)p1301
4.3で『山梨県史』に参考資料として挙げられていた「裏見寒話」を、『甲斐叢書』第6巻(甲斐叢書刊行会編 第一書房 1974年)により確認→p71-72に興因寺の項目あり。
5.その他、次のものにも関連の記述があった
『甲斐国志(大日本地誌大系)』第3巻(松平定能編 雄山閣 1971年)p316
『山梨県勢総覧』(沢登幸寿編著 山梨県史誌刊行会 1936年)p9
『甲斐史』(土屋操編 名著出版 1975年)p292
【追加調査2011.2.13】
6.自館システム及びNDL-OPACの雑誌記事索引で検索すると、次の雑誌・紀要に関連論文の掲載があった。
・「峡南の郷土」第7集(峡南郷土研究会 1971年8月5日)p28-31収載「八の宮良純親王甲府配流の真相」(村松蘆洲著)
・「峡南の郷土」第31集(峡南郷土研究会 1991年3月20日)p35-41収載「八の宮良純親王の足跡」(青嶋長雄著)
・「甲斐路」第106号(山梨郷土研究会 2004年8月20日)p55-58収載「甲遠両国の良純法親王」(沼田晃佑著)
・「都留文科大学研究紀要」第55号(都留文科大学 2001年)p168-158収載「配流の親王と甲州:後陽成天皇八宮」(大内瑞恵著)→インターネットの「都留文科大学学術機関リポジトリ」(http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/ ※2011.2.13確認)でも閲覧可(http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/443/1/055168.pdf ※2011.2.13確認)
※次のものは未所蔵だった。
・「国語学論考」第39号(都留文科大学国語国文学会 2003年3月)p24-41収載「「この里過ぎよほととぎす」考:良純法親王伝承についての一試論」」(大内瑞恵著)
・「東洋学研究」通号 41(東洋大学東洋学研究所 2004)p41-62収載「良純法親王年譜稿」(大内端恵著)
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 日本 (291 9版)
- 寺院.僧職 (185 9版)
- 参考資料
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- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年) (p325,p1052)
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『山梨県史』通史編3 近世(山梨県編集 山梨日日新聞社 2006年)
(p31-32
) - 『山梨県史』通史編4 近世(山梨県編集 山梨日日新聞社 2006年) (p575)
- 『甲府市史』史料編 第4巻 近世3(甲府市史編さん委員会編 甲府市 1987年) (p748-750)
- 『甲府市史』通史編 第2巻 近世(甲府市市史編さん委員会編集 甲府市 1992年) (p119-120)
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『甲府市史』市制施行以後(甲府市史刊行委員会編 甲府市 1964年)
(p1927
) - 『甲斐叢書』第6巻(甲斐叢書刊行会編 第一書房 1974年) (p71-72)
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『甲斐国社記・寺記(山梨県史料』第3巻 寺院編(山梨県立図書館編・発行 1966年)
(p41
)
- キーワード
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- 興因寺
- 良純親王
- 良純法親王
- 後陽成天皇
- 後陽成天皇
- 山梨県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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・興因寺(こういんじ)は甲府市下積翠寺町にある、伊豆の曹洞宗最勝院末寺。
・良順親王は、第107代後陽成天皇(元亀2(1571)~元和3(1617))の第8皇子、八の宮とも言う。18歳で得度し、知恩院門主二品となった。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土(人物-中世)
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000085824