レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/02/01
- 登録日時
- 2014/03/09 00:30
- 更新日時
- 2014/03/09 00:30
- 管理番号
- 滋2013-0071
- 質問
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解決
近江湖北の仏像が戦国時代に地元の村人の手で守られた話は有名だが、その経緯を知りたい。特に、織田信長による戦禍との関係のことを知りたい。
- 回答
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『近江伊香郡志 上巻』の「渡岸寺」の項に、「(前略)元亀元年浅井氏の兵燹にかかり掌宇悉く烏有に帰し、寺領(二百七十三石)また悉く没収せられ茲に全く廃滅に帰し畢んぬ。始め兵火堂宇を襲うや土地の住民等は焔々たる猛火を冒して尊像を搬出せしも、置くに堂宇なく掩うに物なきを以て之を土中に埋蔵したりしが、その翌年井口の豪族井口弾正近邑を併領するに及び、右の尊像を土中に得て一宇の坊舎を造立し、これを安置し併せて釈迦大日の二像をも安置したりき。今日伝うる所の尊像即ち是なり。」とあります。文中の「掌宇」は「堂宇」の誤植と思われます。「飯福寺」の項にも、「(前略)繁花久しく保つべきにあらず世の推移と共に、宗威、人法共に衰え、剰え堂宇また兵乱に禍せられて空しく烏有に帰し畢んぬ。本堂炎上の際、村民等尊像を擁して鶯越の地に逃れ、尊像の破損せられんことを惧れ、これを地中に埋没したりしが、乱平ぎて後村民等再びこれを発掘して修理を加え、一宇の坊舎を建立して此処に安置したり、されど復た昔日の隆盛を見るニ至らず伝えて明治の初年に及べり。」とあります。このほか、『十一面観音』の「向源寺の沿革史」に、「村人に護られた十一面観音像」という項目があり、「一五七〇年(元亀元年)、織田信長は、浅井氏を攻め、この辺り一円は戦火に見舞われて、堂宇は全て焼き払われました。しかし、その時の住職巧円(こうえん)は、村人と共に十一面観音像を土中に埋めて護り、戦火がおさまると土中から掘り出して難をのがれたといいます。」とあります。さらに、『名文で巡る国宝の十一面観音』、『湖北の観音』にも同様の記載があります。ただし、これらは、後世の人々の口伝によるものです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 寺院.僧職 (185 8版)
- 参考資料
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- 1 近江伊香郡志 上巻 富田八右衛門∥編 江北図書館 1952年 5-2170-1 p.360-361
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2 十一面観音 小川光三∥[ほか]著 毎日新聞社 1986年 SB-7171- 86 p.56-58 -
3 名文で巡る国宝の十一面観音 白洲正子∥[ほか]著 青草書房 2007年 S-7171- 07 p.154-189 -
4 湖北の観音 長浜市長浜城歴史博物館∥編 高月観音の里歴史民俗資料館∥編 長浜市長浜城歴史博物館 2012.9 S-7100- 12 p.146
- キーワード
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- 渡岸寺
- 光眼寺
- 飯福寺
- 織田信長
- 井口弾正
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000150423