レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年06月28日
- 登録日時
- 2012/11/26 17:11
- 更新日時
- 2012/12/27 17:28
- 管理番号
- 埼浦-2012-078
- 質問
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解決
俳人斎藤俳小星の別号に「夜鏡庵梅仙」があるようだが、 「夜鏡庵梅仙」はいつの時の号であったのか知りたい。
- 回答
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下記の資料から、明治34年に岡村武野老に弟子入りした号が「疎鏡庵梅仙」で俳号「俳小星」の前の号ではないかと思われる。またその師が「夜鏡庵梅者」である。
『所沢史話』(所沢市教育委員会 1974)
p212 「(略)喜山が没したあと夜鏡庵梅者(岡本力太郎)が引き継いだがその門下生に(略)疎鏡庵梅山(後の俳小星)がいました。」とあり。
『所沢市史 下』(所沢市 1992)
p378-379 斎藤俳小星
「(略)明治33年には遠山予木の句会に参加、翌年には岡村武野老に弟子入りし、俳号疎鏡庵を得た。(中略)明治44年には高浜虚子の門下に入り、その頃から「俳小星」の号を用いるようになった」とあり。「夜鏡庵」という俳号の記述は見当たらない。
『近代日本の形成と地域社会 多摩の政治と文化』(岩田書院 2006)
p283-318「地域における近代俳人の誕生-埼玉県所沢の斎藤俳小星を中心にして」
p286「俳人俳小星は(略)明治33年に所沢町の遠山予木収載の句会に参加し、34年には夜鏡庵梅者の弟子となり、疎鏡庵梅仙の庵号を得ている。(中略)44年に高浜虚子の門下に入り、「俳小星」の号を用いるようになった。」とあり。
『倶会一処(くえいっしょ) 患者が綴る全生園の七十年』(一光社 1979)
p64「夜鏡庵を筆頭に、兎月庵、閑古斎、吟児、恵斎、太古堂、雪ノ本、咬菜、尚左、軻耕、俳小星等の近郷近在の選者先生達が全生病院慰安会員としての上、物質的に精神的に多大なる愛の労を尽された(以下略)」とあり、「夜鏡庵」と「俳小星」は別人と思われる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 詩歌 (911 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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『所沢史話』(所沢市教育委員会 1974)
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『所沢市史 下』(所沢市 1992)
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『近代日本の形成と地域社会 多摩の政治と文化』(岩田書院 2006)
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『倶会一処(くえいっしょ) 患者が綴る全生園の七十年』(一光社 1979)
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『所沢史話』(所沢市教育委員会 1974)
- キーワード
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- 斎藤 俳小星(サイトウ ハイショウセイ)
- 埼玉県-俳句
- 疎鏡庵 梅仙(ソキョウアン バイセン)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000114913