レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 県立長野図書館 (2110021) | 管理番号 (Control number) | 県立長野-23-025 | |||||
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事例作成日 (Creation date) | 2023年3月30日 | 登録日時 (Registration date) | 2023年05月13日 10時46分 | 更新日時 (Last update) | 2023年06月06日 22時36分 | |||
質問 (Question) | 明治時代の教育者「中野保」氏の出身地、職歴や末裔を教えて欲しい。 | |||||||
回答 (Answer) | 調査した結果は下記のとおり。 1 「中野保」氏の出身に関する記述について 次の資料には「中野保」氏の生没年に関する記述がある。なお、没年は昭和12(1937)年で一致しているが、生年は資料により異なる。 ・『父と弟』 中野節 中野節 1940 【N289/ナカノ】 「中野保」氏経歴 では「嘉永五年十一月五日、江戸本所丹後舞鶴藩邸下屋敷に生まれ(戸籍面では安政二年生)」 と、また、 「信州教育会裏面史」 p.2 「予の少年の頃」では、「嘉永六年一月二十一日に江戸は本所丹後舞鶴藩の下屋敷に生れた」との記述が確認できる。 ・『信州近代の教師郡像』 中村一雄著 東京法令出版 1992 【N372/105】 p.147には 「中野保1853-1937」と、また、p.149-150 には、「・・・中野家は、丹後国舞鶴藩の士族であった。保は、江戸本所の舞鶴藩下屋敷で生まれている。その生年月日が、資料によってまちまちで、頌徳碑は戸籍と同じ安政二年十一月五日生まれとしているが、履歴書には嘉永六年十一月とあり、前記の「裏面史」「父と弟」の自談では、嘉永六年一月二十一日といい、節の書いた「父中野保」には、嘉永五年十一月五日生、昭和十二年八月十六日病没、享年八六歳数え年となっている。保は、嘉永六年ペリー来航の前後に生まれ、・・・」との記述が確認できる。 ・『長野県歴史人物大事典』 神津良子編 郷土出版社 1989 【N283/13】 p.515には、「1852(嘉永5)-1937年(昭和12)。丹後国(京都府)舞鶴藩士の江戸屋敷で生まれる。」との記述が確認できる。 ・『日本人物レファレンス事典 教育編』 日外アソシエーツ株式会社編 日外アソシエーツ 2018 【281.03/ニチ】 p.597 には「嘉永5(1852)年-昭和12(1937)年との記述が確認できる。 2 『信濃教育』における「中野保」氏の赴任に関する記述について 次の資料によれば、「中野保」氏が中学校一等助教諭を辞職したのは明治19年4月頃であり、その後同年9月には、長野市内において私塾「中野塾」を開校した旨の記述が確認できる。 ・『父と弟』(前掲) 「中野保」氏経歴 ・『信州近代の教師郡像』(前掲) p.150 ・『長野県歴史人物大事典』(前掲) p.515 そして、『信濃教育』は明治19年10月に第1号が創刊され、会員名簿、教育関係者に係る辞令、学校職員録等は、当該発刊時以降のもののみが掲載されている。 従って、『信濃教育』創刊時以前に「中野保」氏は官職を辞しており、『信濃教育』に掲載された赴任に関する記事は、存在が確認しないと思料される。 3 その他「中野保」氏の教員活動の記録、辞令等について 次の資料には、「中野保」氏の長野県師範学校(講習所)、長野県内中学校での活動が記載されている。 ・『長野県教育史 第1巻』 長野県教育史刊行会編 長野県教育史刊行会 1978 【N372/52/1】 p.746、p.749、p.750、p.778-779、p.786、p.788、p.794、p.796 ・『長野県教育史 第9巻』 長野県教育史刊行会編 長野県教育史刊行会 1974 【N372/52/9】 p.958-959 「師範学校開校式祝詞」 p.967 「師範学校生徒会議章程につき伺い」 p.1063-1064 「師範学校生徒用書籍購入願い」 p.1077-1078 「師範学校毎土曜日休業につき伺い」 p.1086 「松本支校授業担当表届」 p.1089-1090 「小学校教員集会につき松本支校伺い」 ・『長野県教育史 第10巻』 長野県教育史刊行会編 長野県教育史刊行会 1975 【N372/52/10】 p.768-769 「学科受持時間・生徒数取調べ」 p.845 「師範学校入学試験法ほかにつき上申」 p.862-863 「師範学校課業分担表につき上申 次の資料には、「中野保」氏に関する長野県師範学校(講習所)における辞令が掲載されている。 ・『長野県教育史 第9巻』 p.1090-1094 「師範学校職員任免録」 ・『長野県教育史 第10巻』 p.960 「職員任免録」 4 レファレンス協同データベースでの記事について レファレンス協同データベースの「長野市立長野-97-012」に、「中野保」氏が創設した私塾(中野塾)に関する記事が掲載されている。 5 『信濃教育 [復刻版] 総目次』 にて、中野塾が併塾した昭和4-8年まで、及び「中野保」氏が没した昭和12-15年の掲載論文等を調査したが、「中野保」氏に関連する記事は確認できなかった。 6 「中野保」氏の末裔について 次の資料によれば、「中野保」氏には、長男「中野節(雅号 夢影)」氏と、次男「中野靜」氏の子息があるとの記述があり、そして、「靜」氏は、愛知縣名古屋市において「私設中野塾を創設し昭和十一年三月廿一日愛知縣知多郡内海町の別荘に於て病没、享年五十七歳、名古屋の中野塾は長男昌甫塾主となり今尚繼續」との記述がある。 なお、当館の資料ではこれ以上係累を追うことは困難です。 ・『父と弟』 「父中野保について」 p.3-6、77 及び 「中野靜」 ・『信州近代の教師郡像』 中村一雄著 東京法令出版 1992 【N372/105】 p.148-149、p.151 | |||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 『長野県歴史人物大事典』及び 『日本人物レファレンス事典 教育編』で「中野保」氏を調査した。また、「中野保」で当館の蔵書検索を行い、関連する資料『父と弟』及び『信州近代の教師郡像』で、出身地、生没年、職歴及び末裔等を確認した。 2 『父と弟』、『信州近代の教師郡像』、『長野県歴史人物大事典』を調査し、「中野保」氏が官職を辞職した時期は明治19年4月頃で、その後長野市内において私塾「中野塾」を開校したことを確認した。そして、『信濃教育』は明治19年10月に第1号が創刊され、そこに掲載されている会員名簿、教育関係者に係る辞令、学校職員録等は当該発刊時以降のもののみであることを確認した。 3 『長野県教育史 第1巻』、『長野県教育史 第9巻』、『長野県教育史 第10巻』で、「中野保」氏の教員時の活動、辞令を調査した。 4 レファレンス協同データベースでの関連記事を調査した。 5 『信濃教育 [復刻版] 総目次』 で、「中野保」氏に関連する記事を調査した。 6 『父と弟』、『信州近代の教師郡像』で「中野保」氏の末裔を調査した。 <調査済資料> ・『長野県人名鑑』 信濃毎日新聞社開発局出版部編 信濃毎日新聞社 1974 【N280.3/32】 ・『教育人名大辞典』 尾高豊作編 刀江書院 1936 【372.8/6】 ・『図説 教育人物事典 下 日本教育史のなかの教育者群像』 唐沢富太郎編著 ぎょうせい 1984 【372.1/カト/3】 ・『現代学校教育大事典 7 』 安彦忠彦ほか編著 ぎょうせい 2002 【370.33/アタ/7】 ・『人物物故大年表 日本人編1』 安彦忠彦ほか編著 日外アソシエーツ株式会社編 日外アソシエーツ 2005 【280.33/ニチ/1】 ・『信濃教育史概説』 市川虎雄著 信濃毎日新聞社 1933 【N372/8】 ・『学友 長野師範学校創立六十年記念』 福島正文編 長野県師範学校学友会 1934 【N370/7】 | |||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||
NDC | ||||||||
参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||
備考 (Notes) | ||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 所蔵調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 人物 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | |||
登録番号 (Registration number) | 1000333097 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |