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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
県立長野図書館 (2110021)管理番号
(Control number)
県立長野-22-213
事例作成日
(Creation date)
2023年01月31日登録日時
(Registration date)
2023年03月11日 16時03分更新日時
(Last update)
2023年03月24日 12時17分
質問
(Question)
善光寺七塚の一つである行人塚(ぎょうにんづか)が、明治21年の信越線敷設に伴い取り壊されたらしい。移転したと思われるが、経緯を記した資料はあるか。
回答
(Answer)
善光寺七塚といわれる行人塚については、諸説あったので、それぞれ紹介した。取り壊された行人塚を移転した先については、正確にはわからなかった。

 『善光寺の不思議と伝説』 笹本正治著 一草舎出版 2007 【N181/227】 p.31-35に「善光寺七塚」があり、行人塚についての記述がある。
 行人塚は、荒木の木留(きどめ)神社と中御所(なかごしょ)九反(くたん)の二か所で、この二つの行人塚は昭和40年代、50年代にそれぞれの地区の区画整理により、現在の位置に移動したとある。さらに、近世の史料にはみな栗田にあると記されていると、紹介している。栗田は、長野駅の南東側になり、栗田地区の源太窪(げんたくぼ)地籍には、行人塚があったことが書かれている。
 この項目の最後には、
    どちらが七塚の一つであるかは定かではありませんが、土地の古老の話では九反地区のもので
   あったといいます。(『上水内郡誌』二二〇頁、小林計一郎「善光寺七名所のこと」、白川武「榊
   原神社・木留神社・行人塚」『長野』第一八七号)
と結んでいる。

 荒木地籍と九反地籍の行人塚は移転前の場所も含めて、長野駅、および線路から遠い位置にあり、線路の敷設、駅の建築の影響はなかったと思われる。取り壊された行人塚は、栗田地区のものである可能性が高いが、「善光寺七塚」として書かれてはいない。

 上記出典の『長野県上水内郡誌』 千秋社 1999(上水内郡役所 1907の復刻) 【N212/93/3】p.219-221に芹田村の名勝旧跡の記述があった。[国立国会図書館デジタルコレクションでは名著出版版を図書館・個人送信限定で公開 最終確認2023.3.15]
 芹田村は栗田、中御所、七瀬、稲葉などを含む地域で、明治22年に統合された村。ここに、
    五 悪源太義平の墓  栗田区字源太窪耕地にあり方二間高さ三尺塚上高二尺余の碑あり苔生し
               文字鮮明ならず土人傳へ言ふ義平の妾其遺骨を携へ来りて此に埋葬せり
               と其地を字して源太窪と云ふ然れども舊記の拠るべきなく長野停車場設
               置の際取崩され現時は其痕跡たもなし 
    六 行人塚      栗田区字源太窪耕地にあり方九尺高三尺の石碑塚にして善光寺七塚の一
               なり里老傳へ言ふ栗田寺別当大法師寛覚を埋葬せし塚なりと
という記述があった。同様に出典としている 白川武「榊原神社・木留神社・行人塚」『長野』第187号 p.46-47でも、
    行人塚 (-前略-)吹上地区にあると言われている。現在この付近には行人塚は二ヶ所にあり、
        一つは木留神社境内内西北の隅にあり、一つは国道一一七号添九反地区小山印刷所西北
        にある。(-中略-)さて、どちらが七塚の一つであるかは定かではないが、土地の古老
        の話では九反のものであったという。また、昭和五七年正月吉日再建と刻まれたこの行
        人塚の傍に黒ずんだ小型な石碑があり、そこに正面中央に「〇石面書写無量寿浄妙法蓮
        華経」と刻まれてあり、ほかにも文字があるが読み難い。(長野市石造文化財(第一巻)
        の中にも供養塔として記事がある)恐らくはこの石碑が元の塚のものであったと思われる
        ので、やはりこちらが七塚であろうか。(-後略-)
と書かれている。この文章では、栗田地区にあったという行人塚については触れられておらず、不明。

 小林計一郎「善光寺七名所のこと」『長野』第187号 p.53-64のp.64の「行人塚」に上記の2か所の行人塚と、栗田源太窪の今はない行人塚も挙げている。加えて、悪源太義平の墓や六十六部の墓などはみな行人塚であったとも書かれている。
 『長野』第187号には、この悪源太義平の墓についてこのほかに2本記事があり、p.47-50に中川政幸著「積善橋と悪源太義平の墓、顛末記-国鉄長野機関区と長野工場の敷地内にあった-」に、義平の墓の移設先について記述がある。続くp.51-52に、平成8年の時点での移転先である小市盛男氏による「源義平の墓」が収載されている。明治期に小市家の地所に移転してのち、市街地化に伴い、何回か移転していることが書かれている。

 『善光寺史研究』小林計一郎著 信濃毎日新聞社 2000 【N181/194】p.914-919に所収されている「善光寺如来略縁起」の七塚では、「行人塚 栗田村有」とある。解説によると「善光寺如来略縁起」は、明和9年(一七七二)ころ、地元の人によってまとめられたものらしい、としている。
 『新編 信濃史料叢書 第21巻』 信濃史料刊行会編・刊 1978 【N208/43/21】に所収されている「善光寺道名所図会」巻之三「国立国会図書館デジタルコレクション図書館・個人送信限定で公開 saishuukakuninn2023.3.15] でも、行人塚は「栗田村に在」となっている。「善光寺道名所図会」の成立は嘉永2年(1849年)。

『長野県町村誌 北信編』長野県編 名著出版 1973 【N290/33a/1】の上水内郡p.33の「栗田村」に行人塚と源太義平之墓の挿絵があり、p.34の「陵墓」の項に行人塚、悪源太義平の墓それぞれ説明がある。また、明治初期の村絵図である「栗田村全図」にも、この二つは記載されていた。
『同書』p.36から九反を含む「中御所村」があるが、行人塚の記載はない。「中御所村(図)」にも、行人塚の記載は確認できなかった。p.25からの「若里村」には、七塚の内の「姫塚」のみ記載。「若里村(図)」にも姫塚のみ明記されている。

 鉄道建設にあたった国鉄、JRの記念誌等を調べたが、長野駅周辺の墳墓等の移転の記述は確認できなかった。行人塚のあった源太窪地籍は、長野駅の東側で、いわゆる駅の裏側に当たるため、旧国鉄長野工場の敷地にあてられたと考えられる。

 『長野工場 百年の軌跡』 長野工場百年史編集委員会編
      東日本旅客鉄道長野支社長野工場内100年史編集実行委員会 1990 【N686/72】
 p.34に「創業時の長野工場と拡張後の工場」が掲載されている。p.35-38に創業当時の様子があり、p.49から工場の拡張についての記載がある。創業時の工場位置から東1万4000坪の用地を求め、東へ130m拡張したことが書かれているが、史跡等の移転には触れられていない。p.346-349の年表に、拡張のための動きが見られる。
 『長野県上水内郡誌 現代編』 上水内郡誌編集会編・刊 1979 【N212/93/3】p.354から「鉄道の開通と発達」の節があり、
    「旧北国街道(中御所から石堂に通ずる源田窪地籍)ぞいの田園地帯を埋めたてて駅が設置され
    た。当時駅周辺には、ほとんど人家もなく栗田地籍に人家が点在していた程度であった」
と、開通当時の長野駅周辺の様子が書かれている。[国立国会図書館デジタルコレクション図書館・個人送信限定で公開 最終確認2023.3.15]
回答プロセス
(Answering process)
1 「善光寺七塚」の一つとあることから、郷土分類N181(北信地域の寺院)の書棚で善光寺に関する資料を探し、七塚を確認する。行人塚については、元長野市九反と中御所の二か所の塚をあげるものが多い。

2 『善光寺の不思議と伝説』に、それぞれ区画整理事業により、現在地へ移転とあるが、明治の鉄道事業の事は記載がない。また、九反、中御所のそれぞれの塚の移転前の場所を確認する。あわせて、明治期の村絵図や『長野県町村誌』で、明治初期の様子を確認する。移転前の場所が、鉄道敷設で影響があったとは考えにくい。

3 『善光寺の不思議と伝説』では、「近世の史料にはみな栗田にあると記されている」と、紹介していたので、2で使った資料で、明治初期の栗田村を確認する。長野駅近くの源太窪地籍に行人塚と悪源太義平の墓を確認した。

4 『長野市史』『長野市誌 第8巻』の栗田地区の部分には、取り壊し、移転などの記載はない。『長野市の石像文化財』『古文書が語る栗田村』などを見るも、記載はない。栗田地区の区誌にあたるものは所蔵していない。近隣の図書館の所蔵を調べたが、それにあたるようなものは確認できなかった。

5 郷土分類N686(長野県の鉄道)の書棚で長野駅の歴史を調べる。駅の拡張工事等の記述はあったが、それに伴う石造文化財の取り壊し、移転などの記述は確認できなかった。

6 長野県の代表的な地方紙である『信濃毎日新聞』について、当館契約の「信濃毎日新聞データベース」で記事検索をする。大きな記事の見出し等の検索のみの期間のため、検索結果からは、塚などの史跡の取り壊しについての記事は確認できなかった。

<調査資料>
・『長野市史』 藤原正人編 明治文献 1974 (1925年 長野市役所の復刻)【N212/306】
・『長野市誌 第8巻』 長野市史編さん委員会編 長野市 1997【215.2/ナガ/8】
・『長野県史 通史編 第7巻 近代1』 長野県編 長野県史刊行会 1988 【N209/11-4/7】
・『信越線の百年 軽井沢-直江津間開通100年』 伊澤和馬編 信濃路出版 1987 【N686/66】
・『長野市の石像文化財 第1集』 郷土を知る会編 長野市教育委員会 1978 【N714/8/1】
・『長野市の石像文化財 第5集』 郷土を知る会編 長野市教育委員会 1983 【N714/8/5】
・『行人塚のはなし』
   ひとミュージアム絵本つくりスタッフ再話 ひとミュージアム上野誠版画館 2010 【N726/176/1】
   長野市川中島の行人塚についての伝承。
・『善光寺の歴史と信仰』 牛山佳幸著 法蔵館 2016 【N181/292】
・『古文書が語る栗田村』栗田古文書冊子編集委員会編 長野市栗田町内会 2019 【N212/601】
・『近世栗田村古文書集成』青木正義編著 銀河書房 1983 【N212/205】
・『写真でつづる長野鉄道管理局の歩み』 長野鉄道管理局著・刊 1987 【N686/62】
・『国鉄長工物語』 千曲洋著 銀河書房 1985 【N686/53】
・『善行寺さん』 小林計一郎著 銀河書房 1973 【N181/77】
・『善行寺いろはにほへと』 宮坂勝彦著 日本文化社 1991 【N181/206】
・『足もと善行寺寺社めぐり 北信濃』徳竹康彰著 週刊長野新聞社編 ほおずき書籍 2009 【N181/245】
・濁川清夏著「信州の北國街道と信越線」『北國街道研究』第21号 2021 p.51-68
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
中部地方  (215 10版)
石彫  (714 10版)
鉄道運輸  (686 10版)
参考資料
(Reference materials)
笹本正治 著 , 笹本, 正治, 1951-. 善光寺の不思議と伝説 : 信仰の歴史とその魅力. 一草舎出版, 2007.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008466806-00 , ISBN 9784902842289 (【N181/227】 p.31-35)
長野県上水内郡誌 復刻版. 千秋社, 1999.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002759389-00 , ISBN 4884772385 (【N212/93/3】p.219-221)
小林計一郎 著 , 小林, 計一郎, 1919-2009. 善光寺史研究. 信濃毎日新聞社, 2000.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007285727-00 , ISBN 4784098569 (【N181/194】p.914-919)
長野県/編 , 長野県 , 長野県. 長野県町村誌 1 北信篇 復刻版. 名著出版, 1973-10.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059051779-00  (【N290/33a/1】)
東日本旅客鉄道株式会社長野工場/編 , 東日本旅客鉄道株式会社長野工場. 長野工場百年の軌跡 東日本旅客鉄道株式会社長野工場史. 東日本旅客鉄道株式会社長野工場, 1990-00.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059318553-00  (【N686/72】)
上水内郡誌編集会 編. 長野県上水内郡誌 現代篇. 上水内郡誌編集会, 1979.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001435907-00  (【N212/93/3】)
キーワード
(Keywords)
行人塚
善光寺七塚
栗田村
長野駅
信越線
史跡
石造文化財
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
郷土 地名
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000330201解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決