〇筑豊電気鉄道博多線について
参考資料1『地域社会と共に育ち共に走った筑豊電鉄30年の歩み」
p.39に「昭和25年12月23日、電鉄建設免許を得てから約8年10ヵ月を経て、当電鉄の黒崎~直方15.4kmは昭和34年9月18日全線開通した。しかし、その前後から、当社をとりまく環境は非常に厳しく、それ故に直方から飯塚までの第2期工事の目途さえもなかなかつかぬ情勢となっていったのである。昭和37年10月16日、かねて申請中であった筑豊直方以遠の未竣工区間の工事期限延長(略)昭和46年5月29日付で、筑豊直方~博多間地方鉄道未成線の運輸営業廃止申請を運輸省に提出せざるを得なくなったのである。」とある。
参考資料2『西日本鉄道百年史』
「6 筑豊電気鉄道の設立と開業」中p.168「筑豊電鉄線の建設工事」には、計画内容と工事費の記載、「筑豊電気鉄道計画路線図」がある。p.169「開業と輸送実績」には、筑豊電鉄線の開通の歴史が記され、「1971年5月29日に筑豊直方-博多間42km、74年6月4日には黒崎-熊西間0.5kmの未成線の運輸営業廃止を運輸大臣に申請し、許可された。」とある。
参考資料3『鉄道ピクトリアル 2011年4月臨増号 61巻4号』
p.98に沿革が記され、「筑豊電気鉄道敷設の最大の使命であった北九州工業地帯と産炭地筑豊とを結び福岡市に到達する産業鉄道は,1971(昭和46)年7月 筑豊直方-福岡間,1974(昭和49)年6月 黒崎-熊西間地方鉄道(ともに未成線)の運輸営業廃止の許可を得、両区間は幻の路線となった.」とある。またp.99には「会社の沿革」が表形式で掲載されている。
参考資料4『九州の鉄道 私鉄・路面電車編<現役路線・廃止路線>』
p.58に筑豊電気鉄道について記載があり、「1960年前後からのエネルギー革命で石炭から石油へのシフトが起こり、筑豊の石炭産業は徐々に衰退し炭鉱の閉山も相次ぎ、福岡への延長は立ち消えとなった。歴史に「もしも」はないが、エネルギー革命が5年遅かったら福岡延長は実現しただろうといわれている。」とある。
〇油須原線について
参考資料5『赤村史』
p.414に「大正一一年の「鉄道敷設法」の一文に『福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道』の建設計画があり、油須原線建設はここから始まっている。油須原線の建設目的はこれまでの筑豊本線経由で若松港に運び出していた石炭輸送のルートを苅田港向けに振り替える運炭と沿線郡市間の交通の便であった。」とある。p.415には、工事が遅れている理由として、エネルギー革命や経営赤字があげられている。p.416に「油須原線は難航を重ねながらも、昭和四六年までに基礎工事をほぼ完成。しかし、当時の国鉄財政の悪化から大蔵・運輸省は油須原線工事を中止、敷設は全体の九〇パーセント以上が完成しながら、添田線まであと数百メートルで連結されるというところで未成線となった。」とある。
参考資料6『九州鉄道の記憶』
p.154-155に「立派な線路が敷かれ、工事は99%完成。ただ国鉄の線路(添田線、田川線)とつなぐところだけが未完成だった。なぜ、もうちょっと線路を延ばせば国鉄の線路につながるというところで、工事が止まっているかというと、国鉄が受け取りたくなかったからだ。」とある。
参考資料7『ふくおか経済 2017年7月号 347号』
p.28-30に「筑豊近代化を陰で支えた鉄遺産群…旧国鉄油須原線」の記事があり、国の登録有形文化財となっている「内田三連橋梁」「石坂トンネル」の解説と写真がある。
参考資料8『福岡共同公文書館だより 平成26年4号』
p.4-5に「公文書紹介 幻の油須原線」と題し、『昭和27年国鉄油須原線事蹟』(昭和32年度完結)の資料紹介がある。
参考資料9『油須原線建設及び桂川・臼井間短絡新線に関する調査報告書 昭和58年3月』
建設の沿革と経緯、報告書時の現状や課題、将来の見通しなどの記載がある。