レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年08月22日
- 登録日時
- 2022/01/21 14:05
- 更新日時
- 2022/01/21 14:05
- 管理番号
- 横浜市中央2643
- 質問
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解決
かっぽれの起源や歴史について知りたい。
- 回答
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かっぽれの起源や歴史についての資料をご紹介します。
1 『日本舞踊辞典』 日本舞踊社 1995.11
p.145 「巷間舞踊の一つ。この名称は天保年間(1830~43)に流行った<鳥羽節>
の囃子詞から転じた言葉“わたしゃお前にかっ惚れた”から取ったとも、イタリア民謡
の<カポーレン>の転訛、<カップルダンス>から転じたとも伝えられている。
摂津(大阪)の住吉神社で行われる御田植神事「住吉踊り」を天保(文化という
説もある)年間に江戸、神田本町に住む願人坊主たち(願掛けや、水垢離などを
人に代わってした乞食僧のこと)が大道芸として、吉原の廓や盛り場で踊り、流行
したもの。これが「川崎音頭」となってやがてかっぽれとなった。」と、あります。
2 『邦楽曲名事典』 平凡社 1994.06
p.51 「俗曲。二上り。現行曲は一度にできあがったものではなく、三つの異なった
曲を寄せ集めて明治末期に成立したものと推測される。すなわち歌詞は、「沖の暗い
のに白帆が見える」と歌いだすみかん船、豊年満作、それに子守歌「ねんねこせ」に
三分できる。最初のみかん船は、1826年(文政9)江戸の願人が名古屋へ行ったとき
に歌っている(「小唄のちまた」)。さらに80年(明治13)になってもその替歌が印刷
されている。(「開花かっぽれ節」ほか)。そして84年、陸軍はラッパ譜にうつす。
すでに陸軍は、豊年満作を歌った「平作踊」を軍歌に採用していた(1882)。この
二つはいつのころにか統合したようで、89年以降の新橋花街では「かっぽれ」の
名で大流行した。(略)願人の流れをくむ豊年斎梅坊主は、当時、浅草を中心に
しばしば高座へ出演して「かっぽれ踊」を演じたから、この梅坊主によって現行曲が
成立したと考えられる。」と、あります。
『日本音楽大事典』 平凡社 1989.3 p.829にも同内容の記述があります。
3 『日本民謡大事典』 浅野建二/編 雄山閣出版 1983.6
p.136 「「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子詞のある俗謡に合わせて
踊る滑稽な踊で、幕末寄り明治中期にかけて流行。「わたしゃお前にカッポレた」
などから<活惚>とも記す。天保年間の流行唄<鳥羽節>の囃子詞から転じた名称
で、幕末の頃願人坊主たちが住吉踊を一変した<河崎音頭>の「アヤトコセ」「姉
さん本所かえ」「深川」「かっぽれ」を交えて、大道芸として踊ったのが「かっぽれ」
の名で流行した。明治10年頃から寄席にも出るようになり、初坊主や豊年斎梅坊主
が有名。宴席にも流行したが、現在では歌舞伎の所作事にもなっている。(略)」
と、あります。
4 『日本舞踊全集 第7巻 演目解説』 日本舞踊社 1984.12
p.540-541 「「かっぽれ」の始まりは、今の大阪に当たる摂津の住吉神社で執行
する御田植神事の「住吉踊り」を、天保年間(一説には文化年間)に江戸の神田橋本町
に住む願人坊主たちが大道芸に仕立てて、吉原の廓やあちらこちらの盛り場で踊り、
これが大いに流行したところから、のちに「川崎音頭」となり「かつぽれ」となった
ものであります。(略)その「かつぽれ」は江戸時代末期の万延年間以降に、横浜の
港崎(みおざき)の遊郭から流行し始めた大道芸とされています。もっとも最初は
江戸吉原の幇間の平坊主によって創始された屋内芸で、座敷などで演じられておりま
したが、程なく「住吉踊り」と結びついて、花柳界の遊興に行われる芸尽くしとなり、
さらに秋葉原や薩摩原の大道芸に発展して、明治10年頃から同25.6年頃まで全盛期
を続けていたということです。そして、最も有名な頭分は豊年斎梅坊主でした。ただし、
明治時代末期には取締りの制約などで再び屋内芸に戻り、次第に衰えてしまって現在
は寄席の芸人の一部と花柳界の遊芸の中に残っているのみに過ぎません。」
と、あります。
5 『名作歌舞伎全集 第24巻 舞踊劇集』 東京創元社 1972.6
p.215 「「かっぽれ」は、活惚などとも書き、「甘茶でかっぽれ」とか「わたしゃ
お前にかっぽれた」などの文句によるとも、また、イタリアの古舞踊曲の「カポーレン」
に基づくのだという田辺尚雄の説もある。もと願人坊主たちの大道芸の「住吉踊」から
始まったもので、外題の名称に、それが唄われている。」と、あります。
6 『幕末明治見世物事典』 倉田喜弘/編 吉川弘文館 2012.3
p.54-56 「早乙女の姿をまねる大坂の願人(最下層の僧侶)が「住吉踊」と称して
市中を勧進する。それを見て、江戸の願人も文化年中(1804~18)、同じ格好で
万灯傘を持ち出し、「住吉踊」の名のもとに「伊勢音頭」や「深川」などを唄い、
また、茶番を演じながら、市中を流すようになった。江戸の住吉踊は天保の改革
(1842)で一掃されたが、5年後の弘化4年(1847)には4組15人が復活している。
彼らは願人ではなく号胸で「烏万度豊年踊」と唱える、今のところ風教に害はない
ので見守りたいと、隠密廻りは「住吉踊風聞書」に提出した。住吉踊はやがて
「かっぽれ」と改称する。その時期は明らかではないが、明治13年の『いろは新聞』
(9月9日付)は「近く17.8年以来、跳りの風を一変し活報連と号け」と報じている。」
と、あります。
7 『「はやり歌」の考古学 文春新書』 倉田喜弘/著 文藝春秋 2001.05
p.87 「かっぽれという名称は新しく、古くは「住吉踊」といわれていた。願人が
大阪の住吉踊をまね、みすぼらしい格好で江戸市中を流して歩いたので、寺社奉行
は僧侶にあるまじき行為だと断じ、天保改革の際に禁じてしまう。(略)数年後の
弘化4年(1847)、住吉踊が再び市中に現れた。(略)住吉踊のグループはいつの
ほどにか人数も増えて、かっぽれと名乗るようになった。(略)明治13年(1880)
17.8年」以前というから、かっぽれと名乗ったのは、慶応直前の文久・元治(
1861-64年)のころを指すのであろうか。」と、あります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 邦楽 (768 8版)
- 舞踊.バレエ (769 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000311009