レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年10月29日
- 登録日時
- 2022/01/14 09:12
- 更新日時
- 2023/03/31 18:06
- 管理番号
- 広県図2022026
- 質問
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解決
明治10年代に広島県師範学校三等助教諭であった竹本重雄の来歴及び関連資料を調べている。
竹本重雄は明治15年9月から明治16年7月にかけて,開発教授法の習得のために広島県から「師範学科取調員」として東京師範学校へ派遣された人物で,同時に音楽取調掛で音楽教育(唱歌)も習得している。
- 回答
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『広島県史 近代1』広島県/編,広島県,1980【H21/H73-3/6ア】
p.1130-1131 「明治二十年代には開発的教授法が流行(略)広島県では尋常師範学校の太田義弼・竹本重雄の指導によって広められた。」
『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』広島市役所/編修,広島市役所,1958【H21.1/H73/4ア】
p.532-533 広島県私立教育会
p.532 「明治二十年(一八八七)「県下教育の改良上進ヲ翼賛スル」目的をもつて、土肥健之助・竹本重雄・(略)らにより設立されたもので、(略)」
『東雲附小百年史』広島大学教育学部附属東雲小学校/編,創立百年記念事業会,1977【H37.1/H739-6ア】
p.493 「此時[明治十九年]竹本重雄先生が附属小学校主幹に補せられ、(略)」
p.494 「明治二十一年七月竹本先生は本校専任となり、(略)」
p.496 「其頃師範学校から竹本重雄氏が教育研究のため官立東京師範学校へ派遣せられ、又音楽取調所で唱歌の講習を受けて帰校したのが、明治十七年の一月頃であった。」
『広島県教育八十年誌』[広島],広島県教育委員会事務局調査課,1954【H37/H732-16ア】
p.12 「本県では[明治]三十年五月、まず竹本重雄が地方視学に任ぜられ、(略)」
『広島県師範同窓名簿 昭和17年度』廣島縣師範同窓會,1942【H37.1/H739-5/17】
巻末に五十音順の氏名索引があります。
p.34に「竹本重雄」の名前があり,「死亡者」を表す「・」印が記されている。
『六十年回顧録:明治大帝行幸五十周年創立六十周年記念』廣島縣師範學校/編輯,廣島縣師範學校,1935【H37.1/H739-21】
p.359-379 創立以来旧職員
p.362 「就職年月 同[明治]十三年十一月 去職年月 同[明治]二十年十一月 在職年月 七年一ヶ月 職名 同[助教諭] 氏名 竹本重雄」
このほか次の資料も調査したが,関連情報は記載されていなかった。
『社團法人廣島縣師範同窓會員名簿 昭和12年度』廣島縣師範同窓會,1937【H37.1/H739-5/12】
『広島県広島師範学校卒業生及修了者名簿』廣島縣師範學校,1928【H37.1/H739-11】
『創立五十週年記念帖』廣島縣廣島師範學校創立五十週年記念帖発行部/編,廣島縣廣島師範學校創立五十週年記念帖発行部,1924【H37.1/H739-2ア】
『社團法人廣島縣師範同窓會員名簿』廣島縣師範同窓會/[編],[廣島縣師範同窓會],19--【NA/85】
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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山住正巳『唱歌教育成立過程の研究』p.152-154に,師範学科取調員らの音楽伝習について記述があり,「広島師範学校三等助教諭」と記載されている。
「文部省第十一年報」(国立国会図書館デジタルコレクション)p.864「東京師範学校年報」の師範学科取調員に関する記述箇所にある取調員一覧表の中に「竹本重雄」の名前がある。
- NDC
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- 教育史.事情 (372 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 竹本重雄
- 広島県師範学校
- 師範学科取調員
- 東京師範学校
- 開発教授法
- 音楽取調掛
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000310690