レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年08月16日
- 登録日時
- 2021/09/30 00:30
- 更新日時
- 2023/03/31 22:08
- 管理番号
- 6921007473
- 質問
-
解決
住吉新地について知りたい。
- 回答
-
戦前の一時期、住吉公園周辺に「住吉新地」と呼ばれる花街が存在していました。その歴史は『近代大阪と堀江・新町』(資料2)などの中で詳述されています。
p.146に「大正時代に入って新世界と住吉公園の二つの地区には、「酌人営業取締規則」の酌人鑑察を受けて、芸妓もどきの営業をする雇仲居が横行し、大阪府はそうした現状を追認する形で、(表向きは)公園内の音曲は望ましくないと、大正十一年、「芸妓酌人取締り規則」を改正、改めて校園南側・浜口町一帯(一万坪)を芸妓居住地(二業地)として指定、大正年末には、芸妓扱席十五軒、料理屋(貸席)百六十八軒、芸妓八百人を抱えるまでに賑います」と記述されています。
その後新地には、昭和九年六月に都市計画による道路建設のためとして、菖蒲園への移転命令がだされました。しかし、同年に大阪を直撃した第一次室戸台風の影響により、移転もままならなかった店も多く、また太平洋戦争末期には花街の営業は完全に停止されました。戦後は一旦復活しましたが、昭和三十三年の売春防止法の施行を境として、賑わいを減じて住宅地へと変化していきました。
『墨江村誌』(資料3)p.367-368には「東成郡住吉村所属の住吉公園、及本村近接村西成郡粉浜村、玉出町附近には従来より三百軒余の料亭の設置があって、日頃遊客が絶えることがなかった。さてこの遊客の間に出入する通称「ヤトナ」なる女性の出入が頻繁になればなる丈、其処に風儀上の問題が台頭する。それで当局に於いても之が取締の必要を認めて、大正十一年八月本村大字浜口の住吉公園に隣接せる一部の地区を割して所謂「芸妓指定地」となし、又「ヤトナ」を廃して新に「芸妓」なる名称を与え、且その居住地を制限することゝなつた」と記述されています。
『住吉区誌』(資料4)p.244にも住吉新地の沿革が記述されています。
『大阪春秋』142号収録記事「夏のおはらい住吉祭」には、住吉大社で現在開催されている祭りや、夏越祓神事と住吉新地との関係が紹介されています。(資料1)
『交通史研究』61巻収録論文「近代大都市の郊外行楽地と私鉄:大阪住吉を中心に」では、住吉新地の成立と南海電鉄の住吉周辺の開発の関係について論じられています。(資料5)
- 回答プロセス
-
1.当館所蔵検索にてフリーワード“住吉新地”で検索、ヒットなし。
2.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ )にて“住吉新地”で検索、『大阪春秋』142号収録の記事を確認。(資料1)
3.(資料1)の著者名で当館所蔵検索し、ヒットした資料を確認。(資料2)
4.住之江区の地誌『墨江村誌』『住吉区誌』を確認。(資料3)(資料4)
5.「CiNii Research」にてフリーワード“住吉新地”で検索し、ヒットした資料を確認。(資料5)
- 事前調査事項
- NDC
-
- 近畿地方 (216 9版)
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
-
- 当館書誌ID <0012398598> 近代大阪と堀江・新町 水知 悠之介/著 新風書房(発売) 2011.10 978-4-88269-739-8 p.132-152 (資料2)
- 当館書誌ID <0012288708> 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業を発信する- 第142号 特集すみよし〜住吉大社1800年 新風書房 2011.4 978-4-88269-724-4 p.29-35「夏のおはらい住吉祭」、p.52-57「住吉大社に花を添えた住吉新地」 (資料1)
- 当館書誌ID <0080230661> 墨江村誌 [大阪市墨江教育会/編] 大阪市墨江教育会 1929.6 (資料3)
- 当館書誌ID <0000244945> 住吉区誌 -分区十周年記念- 住吉区役所/編集 住吉区分区十周年記念事業委員会 1953 (資料4)
- 鈴木勇一郎「近代大都市の郊外行楽地と私鉄 : 大阪住吉を中心に」『交通史研究』 61(0), 71-85, 2006 https://doi.org/10.20712/kotsushi.61.0_71 (2021.8.30確認)(資料5)
- キーワード
-
- 大阪市住之江区
- 住吉新地
- 新地
- 遊郭
- 花街
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000305257