レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室 “あまがさきアーカイブズ” (5000006) | 管理番号 (Control number) | 190 | |||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2021年9月19日 | 登録日時 (Registration date) | 2021年09月19日 15時23分 | 更新日時 (Last update) | 2021年09月19日 17時32分 | |||||||
質問 (Question) | 尼崎市長洲本通3丁目にある長洲天満神社と、道路をはさんで西側の長洲西通2丁目にある海臨寺跡は、元は一体だったというが、このように分断され、海臨寺跡が道路と旧尼崎港線跡の間の細長い敷地に押し込められたようになった経緯を知りたい。また、海臨寺跡に多くの地蔵が集められ祀られている経緯も知りたい。 | |||||||||||
回答 (Answer) | 〔もとは一体だった長洲天満神社と海臨寺〕 近世から近代にかけて、長洲天満神社と海臨寺は同じ敷地内にあり、一体でした。その当時の様子を描いた「海臨寺絵図」(長洲天満宮・海臨寺絵図)という刷り物の絵図が『尼崎志』第二篇と『長洲小学校百二十年史』に掲載されています。この絵図や『長洲小学校百二十年史』が引く浜口半左衛門著『長洲寺院の縁起考』の記述によれば、東側の天満神社本殿と西側の海臨寺本堂の間に寺子屋の大きな建物があり、この海臨寺の寺子屋が変遷を経て現長洲小学校のルーツとなったといいます。 〔敷地西側への鉄道路線の敷設〕 近代に入ると、明治24年(1891)、旧尼崎城下から官設鉄道の神崎駅(現JR尼崎駅)を経て伊丹方面を結ぶ川辺馬車鉄道が海臨寺の西側に敷設されました。この路線は、摂津鉄道、阪鶴(はんかく)鉄道と変遷したのち明治40年に国有化され、官設鉄道の阪鶴線(神崎駅から北上する路線、のちに福知山線となる)と尼崎支線(神崎駅から南下する路線)になりました。明治44年には、海臨寺西側に金楽寺駅が設置されています。また尼崎支線は、昭和期後半には尼崎港線という通称で知られるようになります。 川辺馬車鉄道の路線は、神崎駅の西側からやや孤を描きつつ直線的に大物(だいもつ)方面に下り、そこからカーブして旧城郭内南浜に入線していました。長洲と金楽寺の集落を避けてその間を通っており、東側に平行している旧中国街道と稲川を避けるため、必然的にこのルートになったものと思われます。 なお、昭和初期の地図や航空写真を見ると、このルートは長洲天満神社と海臨寺の敷地の西側をかすめて通っていますが、敷設されたときに境内を削ったかどうかは不明です。航空写真には、線路の東側に隣接して海臨寺と思われる建物があり、さらにその東側に天満神社の森が写っています。線路はこれらの敷地をよけて西側に敷設されたか、多少敷地を削ったとしてもそれはわずかだったのではないかと思われます。 〔戦時中の都市疎開による敷地の分断と、戦後の道路敷設〕 戦後初期、昭和20年代前半の航空写真を見ると、現在長洲天満神社と海臨寺を分断している道路の路線に沿って、空地ができています。この写真だけでは、空襲の焼け跡なのか防空疎開空地の跡なのかはっきりしませんが、尼崎市立歴史博物館所蔵の昭和21年「疎開空地調書」を見ると、神社境内地や周辺の番地が疎開対象地となっています。防空疎開空地として、境内が削られたものであろうと考えられます。 なお、同じく尼崎市内で、もっとも栄えた旧街道筋の本町通商店街という商店街があり、この商店街も片側が疎開対象として撤去されました。その結果、商店街は戦後移転して現尼崎中央商店街となり、疎開地の跡が国道43号になったという事例があります。 戦後、都市計画道路としての市道尼崎駅大物線が昭和21年5月6日付で決定され、昭和29年12月21日付で最終変更決定されます(『尼崎の都市計画』1991による)。最終変更の2年後、昭和31年には第11回国民体育大会秋季大会が兵庫県で開催され、この道路の南側にあたる大物には相撲会場が設けられているので、国体開催が道路敷設推進の要因となった可能性があります。 なお、昭和2年の市街地図に、すでに長洲天満神社と一部重なる南北の都市計画道路予定が記載されています。昭和初期の都市計画により予定されていた路線が、戦時都市疎開空地を利用する形でやや西寄りにルートを移し、昭和20年代にあらためて敷設決定された可能性があります。 以上の経緯を要約すると、戦時中の都市疎開により長洲天満神社・海臨寺境内の中央部が削られ、戦後この空地に都市計画道路が敷設された結果、長洲天満神社と海臨寺が分断され、海臨寺跡が西側の細長い区画に押し込められたような形になったと考えられます。 〔海臨寺跡敷地内に地蔵が集められた経緯〕 海臨寺跡敷地内に地蔵が集められた正確な経緯は不明ですが、浜口半左衛門著『長洲寺院の縁起考』は、この場所に残る地蔵などの碑石は川辺馬車鉄道(阪鶴線)敷設工事の際同地から発掘されたものと記しています。また、地元の古老に伝わる話として、金楽寺駅の南側に踏み切りがあり、ここで列車にひかれ亡くなった子どもを弔う意味で地蔵が祀られているという伝承があったようです。 金楽寺駅があった昭和50年代以前の写真を見ると、地蔵が何体か敷地にあるのが写っていますが、現在と比較すると数が少なく、尼崎港線と金楽寺駅廃止後も付近の旧集落地に残っていた地蔵が集められ数が増えたのものと思われます。 | |||||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 「海臨寺絵図」(長洲天満宮・海臨寺絵図)及び同地のかつての様子を記した文献 ◆『尼崎志』第二篇372ページ ◆『長洲小学校百二十年史』64~65ページ 2 鉄道敷設後の様子がわかる史料 ◆明治42年地形図(『尼崎市史』第3巻付図) ◆昭和2年「尼崎市内及付近実測図」(都市計画街路・運河図) ◆大阪市撮影航空写真 昭和3年及び昭和17年 大阪市都市計画局都市計画課所蔵航空写真を複製所蔵 3 戦時期都市疎開、戦後道路敷設の様子がわかる史料 ◆昭和23年米軍撮影航空写真 ◆昭和48年尼崎市撮影航空写真 ◆昭和21年「疎開跡地調書」(尼崎市役所文書永年469) | |||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||||||
備考 (Notes) | ||||||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 団体 | |||||||
登録番号 (Registration number) | 1000304875 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |