レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/07/16
- 登録日時
- 2021/08/03 00:30
- 更新日時
- 2021/09/24 11:19
- 管理番号
- 10028665
- 質問
-
未解決
矢崎千代二が、日中戦争下の1941か1943年頃に、北京の「北平芸術専科学校(~専門学校 などとなっている資料もある)」へ、教員として派遣されたことが分かっている。
この、派遣された時期、派遣元や派遣先での肩書等がわかる資料がないか。
特に、それまでフリーの画家だったと思われる矢崎千代二が、派遣された経緯等を知りたい。
なお、矢崎千代二は、戦後帰国せず後継の「中央美術学院」で教鞭をとったことが、依頼者自身が調査した資料(中央美術学院発行の資料とのこと)から分かっているとのこと。
あわせて、同時期に東京美術学校から同校へ派遣されていた、末田利一についても、派遣された時期、派遣元や派遣先での肩書、帰国の時期(後継の東京芸術大学に戻って教鞭をとったことが分かっている)等についても知りたい。
(派遣元は文部省ではないかと思われるが、確認できる資料がない。なお、東京芸大には依頼者自身が既にお尋ねになっているとのこと。)
なお、同時期に2人が同校で教えていたことは、依頼者自身が調査した資料(市販されていない同人会報のようである)で把握できているとのことである。
また、この2人のほかに、1938年から終戦までの間に、同校へ派遣された教員についての情報がないか、あわせて調査してほしい。
- 回答
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【 】は当館請求記号、インターネットの最終アクセス日は2021年7月13日です。
〇矢崎千代二について
派遣時期について、情報源①には、矢崎は1941年10月頃に大連から北京に移住し、北平芸術専科学校で教鞭を執ったとありますが、情報源②では、矢崎が北京に赴いたのは昭和18年(1943年)とされています。なお、情報源③(1942年6月現在の同校教職員名簿)には、矢崎の氏名は見当たりませんでした。
肩書については、情報源④に、「日籍教授(日本国籍の「教授」)」として矢崎の名前が挙げられています。
派遣元や派遣経緯に関する情報は見つかりませんでした。
〇末田利一について
派遣時期について、情報源⑤によれば、末田の国立北京芸術専科学校への「就職日期」は民国29年(1940年)5月1日のようですが、情報源⑥には1940年の冬に末田が中国に来た旨の記述があります。
肩書は、情報源③では「專任教員」、情報源④⑤では「教授」とされています。
帰国の時期に関する情報は見当たりませんでしたが、情報源⑥によれば、少なくとも1945年10月までは中国に滞在していたようであり、また情報源⑦によれば、昭和22年(1947年)12月31日付で、工芸技術講習所(昭和23年4月から東京美術学校附属となる組織)勤務を命ぜられたようです。
派遣元に関する情報は見つかりませんでした。
〇北京芸術専科学校に派遣された教員について
情報源③④⑤に、矢崎・末田以外の日本人教員の氏名等の情報が掲載されています。うち、情報源⑤に掲載されている6名は、国立北京芸術専科学校への「就職日期」が1938年以降であることが確認できます。
情報源:
①『矢崎千代二展 : 絵の旅』横須賀美術館, 2018.11【KC16-L3193】
p.136に国立北京芸術専科学校に関する記述があります。
②『日本美術年鑑. 昭和30年版』東京国立文化財研究所, 1956【705.9-N684-B】
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2458616(国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館内公開)
p.183(125コマ目)に矢崎に関する記述があります。なお、記述内容は以下のデータベースでも確認できます。
東京文化財研究所 物故者記事データベース「矢崎千代二」
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8693.html?hilite=%27%E7%9F%A2%E5%B4%8E%E5%8D%83%E4%BB%A3%E4%BA%8C%27
③『北京特别市公私立大学校教职员名册 调查资料第二十三号』1942年11月
https://www.modernhistory.org.cn/#/DocumentDetails_ts_da?fileCode=9999_ts_00103243&flag=false(抗日战争与近代中日文献数据平台)
237-248コマ目に「国立北京艺术专科学校」の教職員名簿が収録されています。なお2コマ目に「民國三十一年六月現在」とあります。
④「读富家珍学籍档案有感 : 沦陷时期国立北京艺术专科学校历史研究刍议」『中华儿女(海外版)·书画名家』2013(5) pp.90-96
https://chn.oversea.cnki.net/kcms/detail/detail.aspx?dbcode=CJFD&filename=ZHRV201305023&dbname=CJFDN1214
p.95に北京芸術専科学校の「日籍教授」7名が列挙されています。
⑤「国立北京芸術専科学校造呈日籍教員名冊」
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2006092115262749238&ID=M2006092115263249321&REFCODE=B02031709800(アジア資料歴史センター)
⑥『卫天霖』广西美术出版社, 2002.6【KC271-C27】
pp.72-73, 205-208に末田に関する記述が見られます。
⑦『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第3巻』ぎょうせい, 1997.3【FB22-E1194】
p.1050に末田が工芸技術講習所勤務を命ぜられた旨の記述があります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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矢崎千代二については、JapanKnowledge(日本人名大事典)で、明治5年生、神奈川県出身、洋画家、昭和22年北京にて死去等の基本的な情報は確認しました。
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- アジア(レファレンス)
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000302720