『守山往来』p27-28によると、
「播磨田の涌
播磨田は涌の多いとこでした。川とで竹一本さすと、水がよう出よりましたがな。上の方に、ツボ涌と、タイガワ涌ちゅう二つの涌があって、それはそれはよう涌が出よったそうな。あるとき干ばつで水の出が悪うなったとき、タイガワ涌に神輿を埋めたそうな。なんでも、この涌は、他所の地主の田が多かった涌やそうな。それからツボ涌だけがよう水がでたそうなけど、タイガワ涌のところ、それからスズがようなるちゅうことです。(播磨田町)」
「竹の水道のこと
「小浜は、むかし村瀬というところにありました。水を求めて現在地に移って参りました。何年ぐらい前かわかりません。むかし、中島丈右衛門という酒屋が池仲間を結成して、野洲川に池を掘り、小浜まで樋を通しました。この樋は竹の節をぬいて作ったもので、竹が古くなって紙のようになっても川底に伏せてあるので水圧が等しく、長持ちしたもので、よく合理的に出来たものでした。(小浜町)」
『守山市誌 自然編』p82によると、
「1905年以前の主な水利施設は、今井や播磨田井など野洲川の取り入れ口10か所と涌水池70か所および法竜川や石田川や守山川などにある多数の井堰でした。また湖辺では内湖や用排兼用水路の出口を堰などでふさぎ通船路(クリーク)などに水をためてから、その水を「踏車」(水くみ車)、「りゅう骨車」など人力によって揚水しています。市域東南部の上流地域では、干ばつに備えて野井戸を掘り、そこからはねつるべを取り付けて、人力で地下水を揚水してかんがいしていました。」
『郷土守山の土地のなりたちを探る』p83によると、
「左の写真は立田町の野洲川近くでみつけた井戸です。井戸というより小さな池という方がぴったりするかもしれません。これも地下水を取水していることに変わりありませんが、いままでに紹介した自噴の池とはちがいがあります。池の底から自噴しているのではなしに、この池の横のほうから野洲川の伏流水を取水しているものといわれています。」
『郷土資料 野洲川』p9によると、
「木や竹で作った長い管を直接野洲川堤防下に通した「樋(ひ)」から水を取り入れ、いつでも安定した水が得られるようにした「涌川(ゆかわ)」がありました。」
『郷土資料 野洲川(第2次改訂版)』p67「地下水を組み上げている池」(写真)
『私たちの中洲』p110「野洲川から水をとるための樋の写真」
『野洲川風土記』p18「井(い、ゆ)」の項