資料によって異同あり。ほたるの森資料館によると、『ホタルの研究』の記述が正しいとの回答であった。
『守山市史 中巻』P1214によると、
「螢祭も戦中一時中止されていたが、昭和二十二年(一九四七)守山町と守山商工会により再開せられたが螢は昔のように集まらず、遂に昭和二十七年を最後にこの行事は中止された」
『守山市誌 自然編』P557~562によると、
「1921(大正10)年6月18日には、町と青年団が中心となって第1回の<ホタルデー>を開催しました。」「ホタルデーは、1935(昭和10)年から<蛍祭り>と名称が変わりました」「1937(昭和12)年には(中略)ずっと続いていた皇室へのホタル献上が中止になり、次の年からはホタル祭りも行われなくなりました」「1950(昭和25)年にはホタル祭りが再開され」「1956(昭和31)年に開いたのを最後に、守山のホタル祭りは行われなくなりました」
『守山市誌 資料編 自然』P388「守山ボタル年表」によると、
「大正10(1920)守山町青年団が、季節の土・日曜日をホタルデーと定め」
「昭和10(1935)ホタルデーの名称を「蛍祭り」と変更する」
「昭和12(1937)蛍祭りがこの年で中止される」
「昭和25(1950)ホタルデーが再開される」
「昭和31(1956)最後のホタルデー開催」
『守山市誌 生活・民俗編』P173によると、
「大正10年には日本ではじめて蛍祭りが行われ、一夜に二万人の人出があった」「昭和27年6月、町、公民館、商工会、青年会婦人会共催の蛍祭りは大変な賑わいでした」「昭和32年で蛍デーは中止」
『もりやまボタル』P40によると、
「大正10年(1921)・シーズンの土曜・日曜をホタルデーと定め、催しを実施
大正11年(1922)・ホタル祭りを守山商工会と蛍保護会が実施
昭和10年(1935)・ホタルデー一時中止
昭和22年(1947)・守山町と商工会によってホタル行事復活」
『ホタルの研究』P235~によると、
「大正十年には各新聞社の記者を守山に招待し、季節の土、日曜日をホタルデーと定めて大々的に宣伝をした」「ホタルデーは昭和十年で一たんやんだのであった」「昭和二十五年よりホタルデーが再開された」「昭和二十七年は守山駅開設四十周年の記念事業がホタル行事と共催される(中略)翌年はさらにホタルの蒐集に困難が感ぜられたのと、前年の反動もあってホタル行事はこの年以後ふたたび取りやめとなった」
『中仙道守山宿』P182~によると、
「大正13(1924)念12月9日には、蛍として、内務省からわが国初の天然記念物の指定をうけた」「しぐれ会は天然記念物の指定を記念して、蛍デーを設定した」「蛍祭りだけは献上取り止め後も暫く続いていたが、それもまた昭和31年を最後に守山から消え去った」「戦後、蛍祭りが復活されたのは昭和25年のこと」
なお、『写真集 明治 大正 昭和 守山』P91には、
「螢祭り 昭和一五年の螢祭り風景である。洋装はあまり見えない。この年は六月一三日(土)・一四日(日)、六月三〇日(土)、三一日(日)が螢祭りであった」
とあるが、1940年(昭和15)6月13日は木曜、14日は金曜、30日は日曜、31日は存在しないことから誤植の可能性がある。
新聞記事については以下の掲載が確認できた。
京都日出新聞(1921(T10).6.25)「さゝなみ集 守山螢 其の筋へ献納」
朝日新聞京都附録(1922(T11).6.15)「守山螢の出盛り 本月中旬頃」「守山町の螢塔」
朝日新聞(1935.6.7)「守山螢 二百萬匹注文 満州へは飛行便で 八日から螢デー」
朝日新聞(1937.6.2)「珍・ホタル御輿 神風両勇士写真展も開催 守山のホタル・デー」
朝日新聞(1937.6.12)「”神風”に因む催しが多い 今夕守山のホタル祭」
朝日新聞(1940.6.7)「守山のホタル祭 十五日夜から開く」
朝日新聞(1950.6.8)「”ホタル列車”守山、野洲町へ」
朝日新聞(1950.6.11)「花火やのど自慢 守山のホタル狩り」
朝日新聞(1953.6.8)「ホタル 守山」
朝日新聞(1953.6.13)「夜空彩る十万尾 守山町のホタル祭り きょう開幕」
朝日新聞(1953.6.18)「人口養殖の試みも 守山ホタル 20年後は死滅の運命」
朝日新聞(1956.6.14)「近づく守山のホタル祭」
朝日新聞(1956.6.17)「”ミス守山”も選ぶ フタあけた守山のホタル祭」
朝日新聞(1957.6.18)「今年はホタルが安い 同郡守山町」