『守山市誌 資料編 歴史年表』によると、
P9「親鸞が創始した浄土真宗は、室町中期以降蓮如の精力的な布教活動によって湖南地域に広まっていった。蓮如の教化活動がすすむ中、寛正6年(1465)比叡山徒による大谷破却が起こり、山徒は本願寺を襲った。蓮如は高弟の道西のすすめで彼の道場金森に難を避けた。こうして蓮如はこのあと金森に3年在住し、その間近在の道場を巡って布教活動をした。さらに子の実如の布教時期を含めて栗太・野洲郡内では金森・山賀・荒見・中村・矢島・赤野井・三宅など多数の道場寺院が建てられた」
P53~57
「1449(宝徳1) 蓮如に帰依し、山門との戦いで討死した石原九郎左衛門貞治の妻が尼として妙実を名乗り、中村道場(洲本開発中村、蓮光寺)を開くと伝える」
「1454(享徳3) 蓮如上人に帰依した水保支配の今井越後守信勝が今井道場を開くと伝える」
「1459(長禄2) 蓮如は、播磨田門徒に十字名号を、中村西道場、下中村北道場、阿迦井三橋惣道場へ、各方便法身尊号を下附する」
「1460(寛正1) 蓮生寺(三宅・真宗)はもと天台宗長楽寺と称したが、この年改宗し、蓮如の弟子了西が三宅道場を開くという
蓮如は、金森、山賀、荒見道場に方便法身尊号を下附」
「1462(寛正3) 蓮如は、播磨田門徒、開発中村道場に、それぞれ親鸞影像を下附する」
「1464(寛正4) この年蓮如は、親鸞影像・伝絵を赤野井惣門中に、また、親鸞影像を荒見総道場に下付する」
「1465(寛正6) 比叡山徒の大谷破却によって、蓮如は高弟道西が住む金森に親鸞影像を移し寄住する(以後3年在住し布教する)」
「1466(文正1) 11-蓮如は、金森で報恩講を厳修する」
「1475(文明7) 5-16蓮如は、慶先寺(山賀)に親鸞影像を下付する」
「1476(文明8) 2-15蓮如は、三宅道場に親鸞影像を下付する」
「1477(文明9) 2-15蓮如は、赤野井道場に親鸞影像を下付する」
「1480(文明12) 11-蓮如は、金森の道西らの勧めで、山科に御影堂を建立する」
「1481(文明13) 3-26蓮如は、下中村北道場に親鸞影像を下付する」
「文明年中 専照寺(幸津川、真宗)は、了春が文明年中に蓮如上人から開基名号を受け、享禄2年行頓が創立するという」
「1488(長享2) 9-18蓮如は、金森惣道場に親鸞影像を下付する」
「1498(明応7) 10-28蓮如は、赤野井(西別院)へ親鸞影像を下付する」
『守山市誌 歴史編』によると、
P151
「蓮如(一四九九没)が、野洲・栗太両郡を中心に一層の布教に努めていきます。特に、十字名号本尊と親鸞の絵像の下付や「御文」(一四六一年に金森道西へ始めて付与)の発信によって次第に教線を広げていきました。そして守山市域では、金森の道西の道場(懸所・惣道場)をはじめ、中村西道場(矢島・西照寺・西願)、山家道場(山賀・慶先寺・道乗)、荒見道場(聞光寺・蓮淳)などの道場が生まれ、道西・性妙・了西等の在地武士や惣村のおとな層(「東近江衆」)を中心に、本願寺・蓮如との法縁を深めていきました」