レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20201021
- 登録日時
- 2021/02/06 00:30
- 更新日時
- 2021/02/27 16:41
- 管理番号
- 0000201542
- 質問
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解決
「佐賀の乱」の際に、江藤新平が逃亡先として薩摩藩の西郷隆盛を頼ったが、西郷がそれを断ったいきさつが分かる資料はありますか。
- 回答
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次の資料に記載がありました。
(1)『佐賀の乱(役)』 中田 二佐/編 九州地区補給処 1978
p.148 「江藤新平の行動」 3月1日、鰻温泉で西郷隆盛と会う。西郷は江藤と約3時間密談。翌日約4時間、更に密談したという。西郷の「私がいうようになさらんと、あてが違いますぞ」という言葉だけが外に聞こえたといわれる。会談の内容は不明である(註1)。
p.149-150 (註1) 江藤が西郷を訪問した目的は、恐らく西郷に助力を頼み、失敗したならば土佐の板垣に、それも駄目なら中央に戻り、政府に働きかけようとしたであろうと考えられるが、山中一郎の口述書には次のような重要な言葉がある。「西郷は江藤に、島津久光に頼むことがよかろうと言ったが、江藤は久光に相談することを喜ばなかった」と言っており、又、香月経五郎の口述書には、「西郷に面談して依頼したけれども、征韓のことについては同志だが、官軍と交戦してしまったからには周旋の仕様もない」と断られたとある。軍事的な援助を依頼するとともに政府に対する周旋のことも目的であったと思われるし、島津久光に頼ることができなかった江藤であった。
(2)『新西郷南洲伝 下』 稲垣 秀哉/著 高城書房 2008
p.317 いち早く戦場を離脱した江藤である。彼は鹿児島に到着し、武村の南洲邸を訪れたが不在。~(中略)彼は早速鹿児島を発って、南洲の行き先である山川鰻温泉を訪れた。南洲に会うことができたのは3月1日のことである。江藤の南洲訪問の趣旨は、鹿児島同行者の供述書によれば、薩摩兵四五千を借り受けるか、それが駄目なら朝廷へ歎願し、賊名を雪ぐための周旋を依頼することにあったらしい。しかし、同行の香月経五郎の供述によれば、「同行中の江藤その他西郷へ面談致し、一身上の依頼に及び候えども、征韓の儀は固より同志に候えども最早官軍と抗戦の上は、如何とも周旋の途これなき趣にて、拠なく3月3日終に相分れ云々」とのことであるから、南洲は二つながら江藤の依頼を断ったことになる。結局江藤は、東京へ出て自首すると言い残して南洲と別れた。
(3)『江藤南白 下』 的野半介/編 原書房 1968
p.490-491 此日、西郷は、終日閑居して温泉に在りしに、卒然として南白の訪問に接し、其意外なるに驚きしも、直に左右を屏けて快く之に接見せり。~(中略)翌日早暁、南白は又西郷訪ひ密談すると約4時間に及びしが、~(中略)時に西郷は辞気、厳粛、談論、激高、其の声の室外に聞ゆるあり。而して南白の希望は終に西郷の容るる所と為らざりしものの如く、午前9時頃、彼は別を西郷に告げて宇奈木温泉を辞したり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 九州地方 (219)
- 参考資料
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(1)中田 二佐/編. 佐賀の乱(役). 九州地区補給処, 1978.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I071006950-00 -
(2)稲垣 秀哉/著 , 稲垣‖秀哉. 新西郷南洲伝 下. 高城書房, 2008.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I020617227-00 -
(3)的野半介 編 , 的野, 半介, 1858-1917. 江藤南白 下. 原書房, 1968. (明治百年史叢書)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001113638-00
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(1)中田 二佐/編. 佐賀の乱(役). 九州地区補給処, 1978.
- キーワード
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- 江藤新平
- 西郷隆盛
- 佐賀戦争
- 佐賀の乱
- 佐賀の役
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000293524