レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年12月17日
- 登録日時
- 2021/01/27 10:24
- 更新日時
- 2021/04/23 17:39
- 管理番号
- 京歴-537
- 質問
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解決
京都府立京都学・歴彩館(当館)の正面玄関近くに、遺跡の説明の看板があるのを見た。この遺跡について知りたい。縄文時代にこの地域に人が住んだ後、弥生時代の人々もそのまま暮らしていたのか?また、その後も定住し続けていたのか?
- 回答
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『植物園北遺跡,[2017年1月](京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告;2016-5)』(①)のpp.5-6に周辺調査一覧表が掲載されている。
この表は、2015年までの各調査時にどの時代の遺構が見つかったか一覧になっており、縄文時代、弥生時代、古墳・飛鳥時代、奈良・平安時代、鎌倉時代以降のそれぞれの時代の遺跡があったことが確認できる。
『京都府下の重要遺跡の再検討,3(京都府埋蔵文化財研究会発表資料集;第20回)』(②)p.55に「植物園北遺跡は縄文時代の生活の場所をほぼ踏襲する形で、弥生時代後期から古墳時代前期の大集落が形成され、それが消滅すると古墳時代後期には、大きく生活の場所の西と東に振り分け、さらに飛鳥時代から平安時代に至っては南東のみに限られていく。このことが、植物園北遺跡の今日までの竪穴建物の検出分布で考えられることである。」と書かれている。
『総合資料館だより』(③)No.175(2013.4.1)の巻頭記事「植物園北遺跡の発掘調査」で、「遺跡は、京都市北区上賀茂から左京区下鴨の北部にかけて広がっており、弥生時代後期から古墳時代前期を中心として縄文時代から近世まで各時代の遺構が見つかっています。」と記述されている。
③は京都府立総合資料館(当館の前身)のHPで公開しており、以下から閲覧することができる。
http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/documents/dayori175.pdf
(最終確認日:2020-11-12.)
- 回答プロセス
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当館の建物外側にある説明看板を確認したところ、この周辺にあった遺跡は「植物園北遺跡」であることがわかった。
『京都大事典』(④)p.512の「植物園北遺跡」の項から、この遺跡が弥生時代終末期から古墳時代にかけての遺跡であることを確認したが、より新しい調査結果を調べるため(④の刊行年は昭和59年)、当館の蔵書検索システムで「植物園北遺跡」を検索しなおし、出版年が新しい『植物園北遺跡,[2017年1月](京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告;2016-5)』(①)を確認した。
①の参考文献として上げられていた『京都府下の重要遺跡の再検討,3(京都府埋蔵文化財研究会発表資料集;第20回)』(②)を調べた。
当館の資料・デジタル画像検索システム「京の記憶アーカイブ」で「植物園北遺跡」を検索したところ、『総合資料館だより』(③)No.175(2013.4.1)に「植物園北遺跡の発掘調査」が掲載されていることがわかったので確認した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 参考資料
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- ①『植物園北遺跡,[2017年1月](京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告;2016-5)』京都市埋蔵文化財研究所編 京都市埋蔵文化財研究所 2017 (当館請求記号:K1||210.025||Ky6||16-5)
- ②『京都府下の重要遺跡の再検討,3(京都府埋蔵文化財研究会発表資料集;第20回)』京都府埋蔵文化財研究会(大学ブロック)編集 京都府埋蔵文化財研究会 2014 (当館請求記号:K0||210.025||Ky6||)
- ③『総合資料館だより』京都府立総合資料館編 京都府立総合資料館 (当館請求記号:||ソウコ||K)
- ④『京都大事典』佐和隆研[ほか]編集 淡交社 1984 (当館請求記号:K0||291.62||Ky6||)
- キーワード
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- 植物園北遺跡
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000292980