レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/12/25
- 登録日時
- 2021/01/05 00:30
- 更新日時
- 2021/01/21 14:36
- 管理番号
- 8846744
- 質問
-
解決
1959年9月27日以降の1か月間に『朝日新聞』に掲載された、伊勢湾台風襲来時の木曽岬村の被災地に関する写真付き記事を読みたい。
特に木曽岬中学校と小学校の水没写真、またはカラーの写真があれば見たい。
- 回答
-
当館所蔵の『朝日新聞』名古屋本社版紙面を調査したところ、木曽岬村に関する写真付き記事としては以下のものが見つかりましたので、書誌事項と掲載箇所をお知らせします。
当館請求記号:YB-5
タイトル:朝日新聞 [名古屋]
形態:マイクロフィルム
掲載日・掲載箇所・記事見出し:
【木曽岬村の被災地の様子に関する写真付き記事】
1959(昭和34)年9月29日・朝刊・10面「死の村 木曽岬村 初めて現地をみる」
※写真のキャプション:「この流木の下に肉親たちの遺体が漂っている 流失した家々の材木で埋った三重県桑名郡木曽岬村見入地区」
1959(昭和34)年10月24日・夕刊・1面「涙で喜ぶ地元民 木曽岬南端 締切り作業本格化」
※写真のキャプション:「木曽岬作戦の自衛隊員に合掌する被災者(三重県桑名郡木曽岬村で)」
【木曽岬村の被災者に関する写真付き記事】
1959(昭和34)年10月12日・朝刊・7面「泥海の"木曽岬捜索行"三たび やっと会えた中学生 大阪の元雇用主孤独を励ます」
※写真のキャプション:「避難先の津市一身田町で再開を喜ぶ鈴木さんと花井少年」
また、「木曽岬中学校と小学校の水没写真」については掲載がありませんでしたが、上空から撮影された木曽岬村の全域を含む被災地の空中写真は見つかりましたので、ご参考までに以下に掲載箇所をお知らせします。
1959(昭和34)年10月6日・朝刊・1面「なお水づかりの被災地」
※写真のキャプション:「なお水づかりの被災地 伊勢湾台風から10日目のきのう四日市市富田町上空3千メートルで本社機から赤外線フィルムで撮影」
1959(昭和34)年10月17日・朝刊・5面「あれから三週間 まだ水の中に」
※写真のキャプション:「高度五千二百メートルの上空で本社機から赤外線フィルムで写す」
このマイクロフィルムは白黒で撮影されているため、上にお知らせした記事の写真もすべて白黒です。
なお、『朝日新聞』紙面におけるカラー写真の掲載については、『朝日新聞社史 昭和戦後編 (昭和20年(1945年)~昭和64年(1989年))』(朝日新聞社 1994.7)【当館請求記号:UC171-E26】のpp.460-462に以下のような記述があります(以下は要約です)。
・昭和34年の秋から凸版輪転機でカラー印刷した日曜版の発行を開始したが、品質面および印刷能力面での問題から、カラー印刷からオフセット印刷に切り替えた。
・昭和43年1月に「日野オフセット印刷株式会社」を設立し、翌年に東京本社と北海道支社の日曜版とカラー特集、広告特集などを印刷した。その後、45年5月から東京本社の要請に応じて朝刊本紙の一部も印刷するようになった。
・大阪オフセットは、昭和43年8月10日に設立され、昭和44年5月から営業運転を開始した。日曜版は5月26日から大阪、西部両本社の分(6月1日付)の印刷をはじめ、11月から名古屋本社の分も印刷するようになった。
・朝日新聞社は昭和42年3月、カラー電送機開発の方針を決め、昭和43年のメキシコ・オリンピックでカラー電送機が使用された。昭和43年10月21日の西部、名古屋両本社の夕刊にはマラソン優勝選手のカラー写真が掲載され、28日の四本社と北海道支社の朝刊には日ソ女子バレーのカラー写真が掲載された。
以上のことから、『朝日新聞』の本紙でカラー写真が使用され始めたのは昭和43年頃からと推測され、昭和34年時点の本紙紙面ではカラー写真は掲載されていなかったと思われます。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 新聞(レファレンス)
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000291957