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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
相模原市立橋本図書館 (2210035)管理番号
(Control number)
相橋-R2-009
事例作成日
(Creation date)
2020年06月21日登録日時
(Registration date)
2020年10月03日 17時15分更新日時
(Last update)
2021年05月16日 13時54分
質問
(Question)
川尻八幡宮の境内にある古墳について、なぜそこにあるのか由来を知りたい。
回答
(Answer)
①を提供した。
回答プロセス
(Answering process)
市内OPACで“カワシリハチマングウ”で検索した結果、以下の資料が見つかった。
①『津久井郡文化財 史跡埋蔵編 [製本]』津久井郡文化財調査研究会/編 新津久井地域広域市町村圏計画推進協議会 1984 (自館請求記号:K1-06/津久井)
p1~2「史跡の部 1.川尻(かわしり)八幡宮境内の古墳(翁塚 おきなつか)(所在地 城山町川尻字小松)」の項に、「古墳の左側には由来碑があり、次のように刻まれている。『~略~ 神社の縁起(えんぎ)によると平安時代の初期舎人(とねり)親王(天武天皇の皇子)の子孫が奥州に下向の際、この地で病に倒れ奉戴(ほうたい)していた石清水(いわしみず)八幡宮の御分霊を祀(まつ)たと云ふ。この墳墓がその墓であろうと伝えられている。』とある。」この地は津久井の山脈が尽きて相模原の平原地に接し、東国より九州防備のため防人(さきもり)が往復した。いわゆる奈良平安朝時代の街道、多摩の横山に接した地方であるから、その頃は大和地方より東国など奥州方面に通じる交通の要路であった事がうかがわれる。」との記載あり。
同じ頁に「翁塚由来碑」と「翁塚古墳跡」の写真と「翁塚出土品」の図が掲載されている。

後日確認したところ、以下の資料が見つかった。
②『歴史研究 春林文化 第3号』 城山地域史研究会/編 城山地域史研究会 2008 (自館請求記号:K1-21/城山)
p71~72「川尻八幡宮の歴史とその謎を追う」の項の「7 八幡宮境内の石室古墳」に、推定される古墳の規模や年代(7世紀前半)と、発掘年(昭和3年)や発掘者等の記載あり。由来の記載なし。

③『城山公民館 創刊号(2008年8月1日)~』 城山公民館 2008 (自館請求記号:K1-37/城山)
第12号(平成23年3月25日)p3「しろやま歴史めぐり 『川尻八幡宮古墳石室』」の項に、古墳の規模や推定される年代(7世紀前半)等の簡単な記述あり。「川尻八幡宮境内古墳(石室)(『町史の窓(復刻版)』2006年より)」と写真に記述あり。由来の記載なし。

④『町史の窓(復刻版)』 城山町教育委員会教育部生涯学習課社会教育班/編 城山町教育委員会 2006 (自館請求記号:K1-21/城山)
p24~25「古代豪族の墓 ―川尻八幡神社境内古墳―」の項に、③の写真とともに町史編さん事業に伴う実測調査の結果概要と考察の記述あり。由来の記載なし。

⑤『城山町史 1』 城山町/編 城山町 1992 (自館請求記号:K1-21/城山)
p239~247「7 八幡神社古墳(№13)」の項に、測量調査の詳細(実測図・平面図)と年代の推定や位置づけの記述あり。由来の記載なし。

⑥『城山町史 5』 城山町/編 城山町 1995 (自館請求記号:K1-21/城山)
p104~105「八幡神社古墳」の項に、③の写真と④を参照した古墳の概要の記述あり。由来の記載なし。

⑦『かながわ風土記 第291号(2001年10月)』丸井図書出版 2001 (自館請求記号:K0-29)
p26「川尻八幡宮(神社)と小松城址」の項に「神社の境内には、昭和3(1928)年に発掘された古墳がある。「翁塚」と呼ばれている。~中略~神社の由緒によれば、平安初期に舎人親王(天武天皇の皇子)の子孫が、一統数人とともに大和国から奥州に下る途中、当地で病気に罹って斃れたため、ここに葬ったのが高塚であるという。高塚の石室には長直刀、矢鏃を納め、石清水八幡宮の御分霊を神体として小祀を建てたのが神社の始まりという伝承である。『春林文化』には、「『全国的に流布されている行基作の仏像や弘法大師伝承と同じように貴種流離譚の流れをくむもので、歴史的事実とは断定しがたい。』と述べている。」とあり。参考にした資料は以下の資料⑧。

⑧『歴史研究 春林文化 第2号 復刻版 川尻八幡神社の研究(1)』城山地域史研究会/編 城山地域史研究会 1985 (自館請求記号:K1-21/城山)
⑦の参考とした部分が「八幡神社の創建に関する一仮説」の項の以下の部分である。
p24「ところで、大永5年5月に創建されたとする八幡神社には、次のような伝承もある。
創建は大永5年(1525)5月とも云われているが、社伝によれば平安初期に舎人親王の子孫が、一統数人を率いて奥州に下る途中、当地にて、病に罹り斃れたので、同行者がこれを葬り、石室に長直刀、矢鏃を併せ納め、主が奉載してきた石清水八幡宮の御分霊を神体として小祀を建てお祀りしたのが当社の始めであるという。この伝承は、全国的に流布されている行基作の仏像や弘法大師伝承と同じように貴種流離譚の流れをくむもので、歴史的事実とは断定しがたい。」とある。
 それに続いて、「しかし、社地には幾つかの古墳が存在していたという伝承があり、尚かつ、その内の一つは昭和4年に発掘されている。このことから、古代人の墳墓の地として神聖視されていたことは間違いなかろう。」との記載あり。
p48「川尻八幡神社考 4.川尻八幡神社境内の古墳について」の項に、川尻八幡神社に関する資料の紹介が4件あり、その中の1つ「『津久井郡勢誌』昭和28年」の「復刻・増補版」が当館にあった。以下の資料⑨である。
 
⑨『津久井郡勢誌 復刻・増補版』 津久井郡勢誌復刻・増補版刊行委員会/編 津久井郡勢誌復刻・増補版編纂委員会 1978 (自館請求記号:K1-29/津久井)
p67「4.中世の津久井(1)奈良、平安時代の津久井 1.高塚古墳」の項に、「昭和3年頃、川尻村鎮守並木八幡神社の境内に古墳が発掘された。~中略~ 同社由緒に曰く『平安朝の初、舎人親王の子孫奥州に移住せんが為、一党数人を率い大和国より当地に到着した時、主長病に罹り斃る同行者之を葬る」とあるが今は『翁塚』と称している。しかし神社と高塚とは切り離して考えるべきである。此の地は津久井の山脈が尽きて、相模原の平原地に接し奈良朝以降外国防禦として、東国より九州防備の為に防人が往復したいわゆる奈良平安朝時代の街道、『多摩の横山』に接した地方であるから、その頃大和地方より東国及び奥羽方面に通ずる有力な街道筋で、東国から西国への交通路に当っていたから、東国文化の移動は、この津久井東部地方を中心として発生し、また移動したと考えられぬことはない。」との記載あり。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC 
参考資料
(Reference materials)
『津久井郡勢誌 復刻・増補版』津久井郡勢誌復刻・増補版刊行委員会/編 津久井郡勢誌復刻・増補版編纂委員会 1978
『津久井郡文化財 史跡埋蔵編 [製本]』津久井郡文化財調査研究会/編 津久井町 新津久井地域広域市町村圏計画推進協議会 1984
『歴史研究 春林文化 第2号 復刻版』城山地域史研究会/編 城山地域史研究会 1985
キーワード
(Keywords)
川尻八幡神社
翁塚
高塚古墳
並木八幡神社
舎人親王
相模原
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000287861解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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