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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
愛媛県立図書館 (2110043)管理番号
(Control number)
2019-44
事例作成日
(Creation date)
2019年12月13日登録日時
(Registration date)
2019年12月26日 15時43分更新日時
(Last update)
2020年02月29日 13時12分
質問
(Question)
新居浜市大永山にある高尾城と、その城主について詳しく知りたい。
回答
(Answer)
【資料1】には、西条市の高尾城について載っているが、新居浜市の高尾城については情報なし。また、大永山の項目にも、高尾城についての情報はなし。
【資料2】【資料3】も、西条市の高尾城についての情報はあるが、新居浜市の高尾城についてはなし。
【資料4】に、以下の記述がある。
大永山の高尾城は、天正陣に落城したと、誰人もひろく知るところである。また中萩小学校校歌(鴻上弥三郎先生作詞)の一節にも、
  大永おろしにあととわる 麓の城址今もなを
  幾世経し武士が     歴史の華を語るなり
とあり、しかしながら城主名を問うに、古老も史書もこれに答えてくれない。
筆者は以前、福田家(屋号いなかや)に伝わる系図を拝見したことがある。長禄二年より大永山高尾城主とあって、忘れることのない深い印象をうけたものだ(略)
これからかなり程経てのち、福田系図並びに、これに関する調査史料の所持、萩生寺(南之坊)において以上のものを拝見させて頂いた。
(略)
かくしてまた、萩生寺(南之坊)所蔵の、福田家系図、これの調査史料数枚と過去帖等を拝借して、鋳物師屋の資料とともに、調査した結果、高尾城と福田家と萩生村を、次ぎの通りにまとめた。
(略)
三、高尾城と福田家と天正陣
○珍親 伊織守(福田家初代高尾城主)
 長禄二年在故伊予国新居郡大谷山同郡中山同郡萩生邑高尾城三箇所之城主也而在武功多多也
「長禄二年(一四五八)とは、天正の陣より一二七年以前である。」
 法号 福田伊織守院殿大居士 墓所 萩生村南之坊え東南在
 俊成 三郎左衛門尉 代代萩生村長山城主
 ↓
○光則 隼人正 予州萩生麓城主
 ↓
○輝清 次郎左右衛門尉 萩生村高尾城主・大谷城主而武道達人
 ↓
○直義 治郎左衛門尉 萩生高尾城主
 天文年中土州国長宗我部泰元親当国攻入而合戦此時直義不幸討死 墓所伊予新居郡萩生村南之坊東南約三丁畑中在之
○直治 左右衛門尉
 天正年中大阪表羽柴筑前守秀吉公為当知毛利之一族小早川左衛門隆景者二万余騎兵隋而当国江攻来当国の諸氏防戦合戦軍不利之時直治馳参合戦於同郡野々市原討死実ニ天正十三年乙酉八月十四日也而後墓所同郡萩生村南三坊東南葬ス
○義治 後改佐兵衛 号太郎新左衛門
 一陣節幼少而出陣不参加而後成長一族委浪落而民簡ニ下開土地隠居ス而屋号鎌倉屋又鋳文字屋称ス当萩生村ニ住居
「各系図並びに調査史料中に屋号ヲ、いもじや・鋳物師屋・鋳文字屋とありて正否つまびらかでない。」

新居浜の高尾城について書かれたものは、【資料4】以外見つけることができなかった。
回答プロセス
(Answering process)
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC 
参考資料
(Reference materials)
【資料1】『日本歴史地名大系第39巻 愛媛県の地名』 平凡社 1980年 <当館請求記号:K290-54>
【資料2】『古城をゆく(伊予の中世史より)』 松久敬/著 愛媛新聞社 昭和47年 <当館請求記号:K204-2>
【資料3】『新居浜市史』 新居浜市 昭和55年 <当館請求記号:K214-3>
【資料4】「高尾城と福田家と義生村」高橋正太郎/著 『郷土史談』第45号 第5巻第4号 新居浜郷土史談会 1974年 <当館請求記号:K214-7-5-4>
キーワード
(Keywords)
高尾城
大永山
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
後日資料が見つかったため追記。

『句碑・歌碑歴史探訪案内 その五 角野・中萩・大生院地区』 新居浜市高齢者生きがい創造学園句碑歌碑調査サークルはづき 平成11年 <当館請求記号:H099-クヒ5-1999>

p43~44
高尾山(南山)について
 高尾山に、高尾城があったが天正の陣・天正十三年(一五八五)に豊臣秀吉の四国征伐でこの地方の城がことごとく滅んだ。
 「愛媛県中世城館分布調査報告書」によると城郭が三連のつらなりで堀切もあり、縄張り規模は、二五〇米×三〇米、伝えるところでは「福田伊織守珍親築の居城」とある。萩生地区には、福田姓が多いが、どういう関係か人物かは不明である。
 高尾山頂上には、堀切らしきものがあり、明らかに人工と思う平坦部も見える、山が大きいだけに結構広い。
 頂上の鉄塔の手前の平坦部に、小さい立像の石地蔵尊が、平らな石で囲った壇上に据えられている。尊像の立つ座石に次のような銘文が読み取れる。
 前面は「奉 宝暦十一(一七六一)辛巳(しんし、かのと・み)」、裏は「九月朔日開眼(仏尊の開眼供養)」、向かって左には「辛亥(しんがい、かのと・い)寛政三年(一七九一)九月吉日惣(そう、総)氏子中」とある。「伊予温故録」に、高尾城・大永山村高尾山に在り、金子氏の属城なりと言う。城主名伝わらずと記している。
 また、新四国第五十一番札所、地蔵堂の西側に小堂がある。これは高橋家先祖の墓、明和五年(一七六八)の石標があり、高尾城主高橋伊賀守の墓であると言われている。地蔵堂の高橋家では、年一回八月十七日に、先祖の霊にお供物をしてお祀りをしている。古文書などもないが先祖からのしきたりを受け継いでいると言うことである。
調査種別
(Type of search)
書誌的事項調査
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000271653解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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