レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年8月10日
- 登録日時
- 2019/08/04 14:24
- 更新日時
- 2020/01/26 10:58
- 管理番号
- 県立長野-19-020
- 質問
-
解決
次に挙げる資料に、武芸・武道(剣・居・杖・薙刀・槍・棒)に関する記述はないか。また、人物編では分野に関係なく武技(剣・居・杖・薙刀・槍・棒)が書いてある人物の記述はないか。
<資料名>『豊野町誌』・『七瀬町誌』・『鼎(かなえ)町史』・『下八町史』・『盬沢(しおざわ)町誌』・『上松(あげまつ)町誌』・『下伊那誌』 『下伊那史』・『小海町志(2巻)』・『明科町誌』
- 回答
-
質問の9タイトルについて調査したところ、次の3点に人物についての記載を確認した。
『鼎町誌』 鼎町誌編纂委員会編 鼎町誌編纂委員会1969 【N243/67】
「第二編 明治維新以前の概要 第四章 近世 第9節 武術と野口平一郎」の項p.157-158に、「平一郎は上山村野口平五郎の長男で、若いと き江戸に出て幕末の剣豪北辰一刀流千葉周作と、鏡心明知流桃井真蔵に師事して剣を学び、帰郷後は今の鼎橋のたもとに道場を開いていたという。」 以下、鼎の門弟の名前、付記として、当時一般人が柔術(やわら)も練習していたことのエピソードも記されている。
『明科町史』 下巻 明科町史編纂会編 明科町史刊行会 1985 【N233/74/2】
「第十一章 地区人物」 公共施設 団体の、地区別に人物を取り上げた、「第一節 人物 光地区」の項p.751に、「大月亀吉 文政11.11.7~大正6.2.12(1828~1917) 光北村の人、志を文武に寄せ大志を抱き熊本藩史松本孝之助の門人となり諸国を遊歴。柔術無双量、剣術一刀流免許皆伝。」と記述がある。
『豊野町誌』 豊野町公民館編 豊野町公民館 1960【N212/18】 「第二章 人物 早川善左ヱ門」の項p.672に、
「早川善左ヱ門幼名和平通称善左ヱ門人となり和隆と称す。
(前略)養父三郎右ヱ門は義理の叔父日光山大乗寺大僧正に仕え、特に名字帯刀を許されたり。和隆若年より武を好み、養父三郎右ヱ門の名字帯刀御免の恩典に浴しゝ故を以って、飯山藩剣道指南役木村貫之の教えを得たるも修業半ばにして、師の死亡に遭い高弟桐原村斉藤大五郎剣師道場に入門渾身精励免許皆伝を允許さる。帰郷後は講武館道場を開き生業のかたわら地方の青壮年に心身の鍛錬として剣道の指南をなす。 中略 流名北辰一刀流。」以下、人となりについて、評判などの簡略な記載がある。
『鹽(塩)沢町誌』は当館に所蔵がなく、「塩沢町」という地名も確認出来なかったが、市町村変遷より以下の2誌を調査して紹介した。
『信州ふるさと変遷史 新版 県下81市町村のルーツと現在』 松橋好文原編 一草舎出版 2006 【291.52/ナガ】で確認したところ、「塩沢村」という地名がp.45、76の2ヶ所にあった。
塩沢村(北佐久郡)北佐久郡立科町
この塩沢村を含む3村が明治22年に合併して三都和(みつわ)村となり、昭和35年4月に立科町となった。
武芸・武術に関する記載については、次2点に記載がありました。
『立科町誌』歴史編(上) 立科町誌編纂委員会編 立科町誌刊行会 1977 「第4章 幕藩体制と農民の生活 第10章 文化と教育 藩学」の項p.577に、「小諸藩の藩校は明倫堂(上田藩と同名)といって、享和二年(一八〇二年)に開設されている。藩主牧野内膳少輔康長は、儒学を尊崇する念強く、享和二年(一八〇二年)家臣の高栗弾之丞(寛喬)をして明倫堂を創設したのが始まりである。和漢の書を教えたが、漢籍の教授に重きをおき、場所は小諸耳取町にあって生徒は七・八歳より一五.六歳まで必ず修学し、槍剣馬術弓術、柔術、兵学、遊泳、角力等を課し、生徒数は100人ほどであった。」(抜粋)との記載が確認できたので、参考までに記す。
塩沢村(諏訪郡)茅野市
この塩沢村を含む5村が明治8年に合併して米沢村となり、明治33年8月に茅野市となった。
『米澤村村史』 米澤村村史編纂委員会編 米沢地区コミュニティ推進会議 2006【N241/176】を確認したが、質問の件についての記載は確認できなかった。
追加の調査依頼の4タイトル『下八町史』『上松町誌』『下伊那史』『小海町志2』について、後掲の各巻を調査したところ、
『下伊那史 第8巻』江戸中期、後期 下伊那教育会編 下伊那誌編纂会 2006【N243/18/8】に記述があった。
第十章 第一節 学門 藩学と藩校 p.1027-1030「学校の規則」の項に、
「学校の規則」十九カ条の規則のうち10カ条の記載があります。これは武より文を重んじている傾向の内容で、「表紙にあたる部分に「明治四年辛末十二月」と記されており、同二年十月に作成され、篠理整然改訂することなく二年間この規則のままで通したと考えられる。このような規則があったのに同三年知藩事であった堀親広は「文武学校出席の定」をだしている。」
「文武学校出席の定」の一部の内容の記載によると、文学部よりも武学部のあり方を強く打ち出している内容である。
「年齢は十五歳より三十七歳までの者は学校へ出席し、欠席の場合は届けを出すこと、文武は士道の要務とし士族は学門・銃砲・撃剣の道に精出して務めること、上士は馬術・槍・長刀・中巻(短刀の一種)等に心掛けること、中下士の者も余力のあるものは武術の習得に心掛け、卒族も銃砲・撃剣の他、馬術・弓術にも心掛けるようにとの規則であった。武術の道をおろそかにしてはならないという考え方が強かったといってよい。」という記載があった。
再度調査した資料
『下八町史』 須坂市下八町史編集委員会編 須坂市下八町史編集委員会 1977 【N214/42】
『上松町誌 第2巻』民俗編 上松町誌編纂委員会編 上松町 2000 【N234/96/2】
『上松町誌 第3巻』歴史編 上松町誌編纂委員会編 上松町教育委員会上松町誌編纂委員会 2006 【N234/96/3】
『下伊那史 第5巻』鎌倉時代 下伊那教育会編 下伊那誌編纂会 1967 【N243/18/5】
『下伊那史 第6巻』室町時代 下伊那郡教育会編 下伊那誌編纂会 1970 【N243/18/6】
『下伊那史 第7巻』安土・桃山・江戸初期 下伊那郡教育会編 下伊那誌編纂会 1980【N243/18/7】
上記以外の調査済み資料
『豊野町誌2』豊野町の歴史 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会2000【N212/18A/2】
『豊野町誌3』豊野町の民俗と地区誌 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会 1998 【N212/18A/3】
『豊野町誌4』豊野町の年表 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会1995【N212/18A/4】
『豊野町誌5』豊野町の資料 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会 2001
【N212/18A/5】
『豊野町誌6』豊野町の資料 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会 1996
【N212/18A/6】
『七瀬町誌』 七瀬町誌編纂委員会編 七瀬町公民館 1984 【N212/213】
『下伊那史 第1巻』考古編 下伊那教育会編 下伊那教育会 1991 【N243/18/1】
『下伊那史 第2巻』原始時代 市村咸人編 下伊那誌編纂会 1955 【N243/18/2】
『下伊那史 第3巻』原始時代 市村咸人編 下伊那誌編纂会 1955 【N243/18/3】
『下伊那史 第4巻』原始・古代編 市村咸人編 下伊那誌編纂会 1961 【N243/18/4】・
お問い合わせの『下伊那誌』は気象編・地質編・陸水編だったため、『下伊那史』を調査した。)
『小海町志1』 川東編 新津享編著 小海町志刊行委員会 1967 【N223/20/1】
『小海町志3』 社会編 小海町教育委員会編 小海町志刊行委員会 1973 【N223/20/3ァ】
『小海町志4』 近・現代編 小海町教育委員会編 小海町志刊行委員会 1997 【N223/20/4】
『明科町史 上巻』 明科町誌編纂会編 明科町史刊行会 1984 【N233/74/1】
- 回答プロセス
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依頼のあった9タイトルを調査したところ、次の3点に人物についての記載を確認した。
・『鼎町誌』 鼎町誌編纂委員会編 鼎町誌編纂委員会1969 【N243/67】
「第二編 明治維新以前の概要 第四章 近世 第9節 武術と野口平一郎」の項p157-158
・『明科町史』 下巻 明科町史編纂会編 明科町史刊行会 1985 【N233/74/2】
「第十一章 地区人物」 公共施設 団体の、地区別に人物を取り上げた、「第一節 人物 光地区」の項p751
・『豊野町誌』 豊野町公民館編 豊野町公民館 1960【N212/18】 「第二章 人物 早川善左ヱ門」の項p672
『鹽(塩)沢町誌』は当館に所蔵がなかった。
「塩沢町」という地名も見つからなかったが、。『信州ふるさと変遷史 新版 県下81市町村のルーツと現在』p45で確認したところ、「塩沢村」という地名がp.45、76の二ヶ所にあったので調べる。
<塩沢村(北佐久郡)北佐久郡立科町>
この塩沢村を含む3村が明治22年に合併して三都和(みつわ)村となり、昭和35年4月に立科町となったことを確認したため、『立科町誌』歴史編(上) 立科町誌編纂委員会編 立科町誌刊行会 1977を確認する。
「第4章 幕藩体制と農民の生活 第10章 文化と教育 藩学」の項p.577に、
「小諸藩の藩校は明倫堂(上田藩と同名)で、槍剣馬術弓術、柔術、兵学、遊泳、角力等を課し、生徒数は100人ほどであったこと等の記載があった。
<塩沢村(諏訪郡)茅野市>
『信州ふるさと変遷史 新版 県下81市町村のルーツと現在』p76によると、この塩沢村を含む5村が明治8年に合併して米沢村となり、明治33年8月に茅野市となったことを確認した。
『米澤村村史』 米澤村村史編纂委員会編 米沢地区コミュニティ推進会議 2006【N241/176】を確認したが、今回の依頼の件についての記載は確認できなかった。
追加の調査依頼の4タイトル『下八町史』『上松町誌』『下伊那史』『小海町志2』について、後掲の各巻を調査したところ、
・『下伊那史 第8巻』江戸中期、後期 下伊那教育会編 下伊那誌編纂会 2006【N243/18/8】第10章 第1節 学門 藩学と藩校 p.1027-1030「学校の規則」の項に、武芸・武道に関する記述があった。
再度調査した資料
『下八町史』 須坂市下八町史編集委員会編 須坂市下八町史編集委員会 1977 【N214/42】
『上松町誌 第2巻』民俗編 上松町誌編纂委員会編 上松町 2000 【N234/96/2】
『上松町誌 第3巻』歴史編 上松町誌編纂委員会編 上松町教育委員会上松町誌編纂委員会 2006 【N234/96/3】
『下伊那史 第5巻』鎌倉時代 下伊那教育会編 下伊那誌編纂会 1967 【N243/18/5】
『下伊那史 第6巻』室町時代 下伊那郡教育会編 下伊那誌編纂会 1970 【N243/18/6】
『下伊那史 第7巻』安土・桃山・江戸初期 下伊那郡教育会編 下伊那誌編纂会 1980【N243/18/7】
上記以外の調査済み資料
『豊野町誌2』豊野町の歴史 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会2000【N212/18A/2】
『豊野町誌3』豊野町の民俗と地区誌 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会 1998 【N212/18A/3】
『豊野町誌4』豊野町の年表 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会1995【N212/18A/4】
『豊野町誌5』豊野町の資料 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会 2001
【N212/18A/5】
『豊野町誌6』豊野町の資料 豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会 1996
【N212/18A/6】
『七瀬町誌』 七瀬町誌編纂委員会編 七瀬町公民館 1984 【N212/213】
『下伊那史 第1巻』考古編 下伊那教育会編 下伊那教育会 1991 【N243/18/1】
『下伊那史 第2巻』原始時代 市村咸人編 下伊那誌編纂会 1955 【N243/18/2】
『下伊那史 第3巻』原始時代 市村咸人編 下伊那誌編纂会 1955 【N243/18/3】
『下伊那史 第4巻』原始・古代編 市村咸人編 下伊那誌編纂会 1961 【N243/18/4】・
お問い合わせの『下伊那誌』は気象編・地質編・陸水編だったため、『下伊那史』を調査しました。)
『小海町志1』 川東編 新津享編著 小海町志刊行委員会 1967 【N223/20/1】
『小海町志3』 社会編 小海町教育委員会編 小海町志刊行委員会 1973 【N223/20/3ァ】
『小海町志4』 近・現代編 小海町教育委員会編 小海町志刊行委員会 1997 【N223/20/4】
『明科町史 上巻』 明科町誌編纂会編 明科町史刊行会 1984 【N233/74/1】
- 事前調査事項
- NDC
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- 武術 (789)
- 参考資料
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鼎町誌編纂委員会 編 , 鼎町 (長野県). 鼎町誌. 鼎町誌編纂委員会, 1969.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001211562-00 -
明科町誌編纂会/編 , 明科町史編纂会. 明科町史 下巻. 明科町史刊行会.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I058963004-00 -
豊野町公民館郷土調査部編 , 豊野町(長野県) , 豊野町公民館郷土調査部. 豊野町誌. 豊野町公民館郷土調査部, 1960.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I002649406-00
-
鼎町誌編纂委員会 編 , 鼎町 (長野県). 鼎町誌. 鼎町誌編纂委員会, 1969.
- キーワード
-
- 町誌
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000259775