レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/7/16
- 登録日時
- 2018/11/29 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:33
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000673
- 質問
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解決
【冬瓜町(かもりまち)の町名由来について】 旧町名の冬瓜町(かもりまち、現在の金石西1丁目あたり)の由来について調べている。「冬瓜町」の前には「神守町」という表記だったと聞いたことがあるが、なぜ「冬瓜」という表記に変わったか知りたい。
- 回答
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『亀の尾の記』(11824824)p.44「冬瓜町」…「宮腰内にして實は別なり。冬瓜の號何に因る事を知らず。」とある。(質問者事前調査済み)
『角川日本地名大辞典 17 石川県』(118552562)
p.290「かもりまち 冬瓜町」…「大野湊神社の夏祭りは、当町の住居が冬瓜太鼓(かもりだいこ)をたたき寺中へ行ってはじめて神輿がでるので、冬瓜は神守りが転化したともいわれる。」とある。
→質問者によると、神輿は「仮殿」から冬瓜町以外の町もめぐって大野湊神社に向かううえに、冬瓜町内には「天磐?樟船(あまのいわくすぶね)社」という別の神社がある。大野湊神社の「神守り」だったのか疑問が残るとのこと。
『大野湊神社壱千参百年祭記念誌』(119724269)p.201「神輿御還幸行列順路図」
神輿が仮殿から大野湊神社までたどる順路が地図で掲載されている。お旅所の一つとして冬瓜町の「天磐?樟船社」の記載もある。
『日本歴史地名大系 17 石川県』(118287258)
p.456~461「宮腰町」
「白山宮の有力末社佐那武(さなたけ)社(現大野湊神社)」「佐那武社神主が祀っていた天磐?樟船社」と記述がある。
p.461「冬瓜町」
三代藩主前田利常が城中の魚類を確保するため、石見国の漁民を招き諸役を免除して居住させたのがはじまり、という旨が記載されている。「宮腰町には本町・地子町の区分があったが、当町はどちらにも属さず、江戸時代を通して独自の位置を占めた。」という記述もある。
『金石町誌』(11801960)
p.182「天磐?樟船社」…「當町大野湊神社の末社なり。」と記述がある。
p.213~214「冬瓜町」…『亀の尾の記』から引用。
巻末附録p.77「二、旧町名の由来(板崎弥一郎・著)」に「冬瓜町」について書かれている段落があり、「かもりは神守りの転化したもので後世、漢字で発音に当てはめたもので」と記述がある。
『写真でたどる 金石今昔』(109069723)p.82「天磐?樟船社(あめのいわくすぶねのやしろ)」…「大野湊神社の旧社地は、(中略)冬瓜町はその当時砂丘上にあった神社に勤めた神主が生活した町と伝えられ、神守町(かみまもるまち)から『(かもりまち)』と呼称されるようになったと言われる。」
また、「冬瓜町」で当館の資料検索をしたところ、以下の資料がヒットした。
『北陸都市史学会誌 No.8』(109158592)
p.45「北国における海村の成立 ―宮ノ腰町冬瓜町の成立について― (発表要旨)」
※「天磐?樟船社」については、『金沢市神社大観』(119555602)や『石川県神社誌』(118412230)には記されていない。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000246529