レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/04/11
- 登録日時
- 2018/07/01 00:30
- 更新日時
- 2018/07/10 10:55
- 管理番号
- 6000039702
- 質問
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解決
庄内小学校の南西の隅に「忠魂碑」がある。この忠魂碑が作られた経緯などが知りたい。
- 回答
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『豊中市立庄内小学校100年史』(昭和54年)p.20
この忠魂碑の建設者に対する感謝状と忠魂碑の写真が掲載されています。
ここに添えられた文章には、「現在、忠魂碑は庄内校の前にあり、相当痛んで(原文ママ)いるが修復者もない。これも時世の故かといたましい思いもする」とあります。
写真を見ると石碑が木材で支えられているように見えます。
感謝状は、除幕式を行うにあたって、殉難護国の英霊を合祀するために忠魂碑の企画をし、この事業の趣旨に賛同して資金を寄付した人たちへの感謝を示す内容のようです。
感謝状の日付は、「昭和十二年七月二十二日」。
贈呈者は、「庄内村忠魂碑建設委員長 帝国在郷軍人会庄内村分会長 兼 庄内村軍友会長 陸軍歩兵中尉従七位 中川芳太郎」 となっています。
- 回答プロセス
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忠魂碑がどのようなものなのか分からなかったため、検索エンジンで「豊中市立庄内小学校/忠魂碑」と画像検索したところ、「豊中豊町エンジン」という個人のブログの写真がヒットした(2018.4.11確認)。
ブログは2017年10月の記事のようで、写真では木材でつっかえ棒をされている忠魂碑が写っていた。
『豊中の碑』(鹿島友治)、『ふるさと豊中の石碑採拓巡り』(豊中上野拓本クラブ)には載っていない。
庄内小学校の記念誌を確認したところ、『豊中市庄内小学校100年史』にこの忠魂碑に関する記載があり、昭和12年7月22日に除幕式が行われたことが分かる。
同書によると、庄内小学校は明治11年4月に竜門小学校として発足、明治22年4月に町村制実施により庄内尋常小学校となった。この時に校舎は庄内幸町5丁目庄内神社の南側に新築された。その後、増改築を繰り返し、昭和11年に現住所(庄内幸町4丁目)に移転している。
『新修豊中市史 第10巻学校教育』によると、昭和9年9月の室戸台風で校舎や講堂が全壊したため大字牛立に小学校敷地を買収して移転したとある。(p.454)
このことから、小学校が現在地に移転してから忠魂碑が建てられたものと推測される。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『豊中市立庄内小学校100年誌』 豊中市立庄内小学校 創立100周年記念事業実行委員会/企画・編集 豊中市立庄内小学校 創立100周年記念事業実行委員会 (20)
- キーワード
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- 豊中(とよなか)
- 庄内(ショウナイ)
- 庄内幸町(ショウナイ サイワイマチ)
- 庄内小学校(ショウナイ ショウガッコウ)
- 碑(ヒ)
- 忠魂碑(チュウコン ヒ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 庁内
- 登録番号
- 1000237792