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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000237601
提供館
(Library)
県立長野図書館 (2110021)管理番号
(Control number)
県立長野-18-035
事例作成日
(Creation date)
2018年7月18日登録日時
(Registration date)
2018年06月26日 13時50分更新日時
(Last update)
2020年01月26日 10時55分
質問
(Question)
長野県に中津村立国民学校は実在したか
回答
(Answer)
『戦争に巻きこまれた学校;今次戦争末期、長野県下の学校へ疎開、配置された軍隊・軍事施設・軍需工場等の実態についての、二次報告』 篠ノ井旭高等学校郷土研究班 編 篠ノ井旭高等学校 1995 【N209.7/11/2】p.2~4「(1)県下の国民学校名一覧」に、郡・市別国民学校の数が記載されている。その中に「中津」という地名は北佐久郡(p.2)と更級郡(p.3)のふたつの地域の記載があった。
また、p.5-p.19の「(2)国民学校調査一覧表」にも、学校名・使用箇所・出典など9項目の調査結果が記されており、p.5に北佐久郡の「中津」、p.14に更級郡の「中津ほか」の記載がある。

<北佐久郡中津村について>
『信州ふるさと変遷史 新版 県下81市町村のルーツと現在』 松橋好文 原編 一草舎出版 2006 【291.52/ナガ】
p.50を確認したところ、明治22年(1889年)「中津村」になり、昭和30年(1955年)「南牧村」と「五郎兵衛新田村」の2村と合併し、「浅科村」になった。

『浅科村史』 浅科村史編纂委員会 編 浅科村 2005 【N222/151】p.610「国民学校と戦争」の項に、「昭和十六年(一九四一)三月一日国民学校令を公布、四月一日より実施した。尋常・高等小学校を国民学校初等科・高等科と改称」とある。さらに同ページの学校日誌での各校の実施状況のあらましによると、「十六年度 ○中津国民学校 四月一日  中津国民学校と校名変更 入学式」とあった。。
p.615-616の「学童疎開」の項には、浅科村域でも各寺院で学童疎開を受けいれた旨の記述があり、「二十年一月十九日、集団疎開児童受入、杉並区大宮国民学校中津分教場五〇名 中津学寮正縁寺。五月六日疎開学童到着、午後六時受入式(中津)」という記載があった。
また、巻末の年表「浅科村のあゆみ」p.821-822に、中津国民学校に名称が変わってからの出来事が記されている。

<更級郡中津村について>
 更級郡中津村は、『信州ふるさと変遷史』によると、現在は長野市川中島の一部。
p.25を確認したところ、明治22年(1889年)に「中津村」となり、昭和30年(1955年)御厨村と合併して「昭和村」になった。その後昭和31年(1956年)「川中島村」と合併して「川中島町」に、昭和41年(1966年)「篠ノ井市」「更北村」「信更村」「松代町」「若穂町」「七二会村」とともに長野市に合併している。

先述の『戦争に巻きこまれた学校』の一覧表から出典資料として記載されている『昭和小学校百年誌』昭和小学校百年誌編集委員会編 昭和小学校百周年記念事業実行委員会 1997 【N376.2/159】を確認したところ、p.310-311に中津尋常高等小学校と御厨尋常高等小学校が統合されて昭和尋常高等小学校となる経緯が記載されている。
昭和尋常高等小学校は昭和16年(1941年)4月1日の国民学校令公布により、「昭和国民学校」に名称が変わった(年表p.521)。更級郡中津村には「中津村立国民学校」は確認できなかった。

疎開先の資料として、以下を確認した。
『戦時下の子どもたち 信州の十五年戦争』 長野県立歴史館編・刊 2006 (秋季企画展図録) 【N209.7/38】に、1944年と1945年、東京のどの地区から疎開してきたかの、受入れ郡別疎開先が色分けで記載されており、
1944年 ・北佐久郡―杉並区 ・更級郡―豊島区(p.45)
1945年 ・北佐久郡―杉並区 ・更級郡―豊島区 足立区(p.46)
となっている。

『学童疎開の記録1学童疎開の研究』全国疎開学童連絡協議会編 大空社 1994
【372.1/ゼン/1】「学童集団疎開先一覧表-東京都-」の杉並区の欄p.455に、
長野県北佐久郡小諸町・大井村が、大宮国民学校より220名を受入れの記載があり、その欄のその他の項目に、「中津村正縁寺」と記載がある。

※上記2冊は神奈川県立図書館に所蔵がある。
回答プロセス
(Answering process)
「疎開」「中津村」でキーワード検索して上がった本をピックアップする。

『戦争に巻きこまれた学校;今次戦争末期、長野県下の学校へ疎開、配置された軍隊・軍事施設・軍需工場等の実態についての、二次報告』 p.2~4「(1)県下の国民学校名一覧」に、郡・市別国民学校の数が記載されている。その中に「中津」という地名は北佐久郡(p.2)と更級郡(p.3)のふたつの地域の記載があった。
また、p.5-p.19の「(2)国民学校調査一覧表」に学校名・使用箇所・出典など9項目の調査結果が記されており、p.5に北佐久郡の「中津」、p.14に更級郡の「中津ほか」の記載があった。そのため、それぞれの「中津村」を調べる。


<北佐久郡中津村について>
『信州ふるさと変遷史 新版 県下81市町村のルーツと現在』p.50を確認する。明治22年(1889年)「中津村」になり、昭和30年(1955年)「南牧村」と「五郎兵衛新田村」の2村と合併し、「浅科村」になる。

『浅科村史』 p.610「国民学校と戦争」の項に、「十六年度 ○中津国民学校 四月一日  中津国民学校と校名変更 入学式」とある。
また、p.615-616の「学童疎開」の項には、浅科村域でも各寺院で学童疎開を受けいれた旨の記述があり、「二十年一月十九日、集団疎開児童受入、杉並区大宮国民学校中津分教場五〇名 中津学寮正縁寺。五月六日疎開学童到着、午後六時受入式(中津)」という記載がある。


<更級郡中津村について>
 更級郡中津村は、『信州ふるさと変遷史』によると、現在は長野市川中島の一部。p.25でその変遷を確認した。

 先述の『戦争に巻きこまれた学校』の一覧表から出典資料として記載されている『昭和小学校百年誌』p.310-311に、中津尋常高等小学校と御厨尋常高等小学校が統合されて昭和尋常高等小学校となる経緯が記載されている。
付録の年表に、昭和16年(1941年)4月1日の国民学校令公布により「昭和国民学校」に名称が変わった、とある(p.521)。
年表p.519にその流れが記載されている。更級郡中津村には「中津村立国民学校」は確認できなかった。

疎開先の資料として、以下を確認した。
『戦時下の子どもたち 信州の十五年戦争』に、1944年と1945年、東京のどの地区から疎開してきたかの、受入れ郡別疎開先が色分けで記載されている。

『学童疎開の記録1学童疎開の研究』の「学童集団疎開先一覧表-東京都-」のp.455の杉並区の欄に、長野県北佐久郡小諸町・大井村が、大宮国民学校より220名を受入れの記載があり、その欄のその他の項目に、「中津村正縁寺」と記載があった。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
中部地方  (215)
日本史  (210)
日本  (291)
参考資料
(Reference materials)
『戦争に巻き込まれた学校 今次戦争末期、長野県下の学校へ疎開、配置された軍隊・軍事施設・軍需工場等の実態についての、二次報告』
篠ノ井旭高等学校郷土研究班/編 篠ノ井旭高等学校 1995 【N209.7/11/2】
浅科村史編纂委員会編 , 浅科村史編纂委員会. 浅科村史 : 北佐久郡浅科村. 浅科村浅科村史刊行会, 2005.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I011236103-00
長野県立歴史館/編集 , 長野県立歴史館. 戦時下の子どもたち : 信州の十五年戦争. 長野県立歴史館, 2006.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I000416508-00
キーワード
(Keywords)
中津村
国民学校
疎開
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
中津村 郷土 地名
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000237601解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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