レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/11/14
- 登録日時
- 2018/03/21 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:32
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000590
- 質問
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解決
【富田主計について】 富田高定の実子である富田主計と、高定の実兄である宗高の実子の千代丸とを入れ替えて、本物の主計は稲葉主計として摂津国の中島藩に入ったという内容が書かれた資料はないか。また、主計町の名前の由来になっている、富田主計重家のエピソードなどが知りたい。
- 回答
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○富田高定について
『戦国人名辞典』(119320713)p.170「富田高定」
『戦国人名事典』(11086165)p.550「富田高定」
上記資料によると、富田高定は豊臣秀次に従った若江七人衆の一人で、のち加賀の前田利長に迎えられたと書かれている。
『越登賀三州志』(119989783)p.234-235「富田蔵人高定」によると、富田高定は富田左近将監の次男で、子がなく、後家へ小給を与えたようだが、『越登賀三州志』を書いた富田景周の祖の富田氏とは別苗であるとする。
富田左近将監(富田一白)については、『戦国人名辞典』(118469920)p.700に、前田家に仕えた富田氏の家系については『石川県史資料 近世篇8 諸士系譜』(109084069)p.145-151に記載がある。
『加能郷土辞彙』(初版)p.634「富田高定」 父の名前は盛高といい、高定の後は子がなく断絶したと書かれている。
○富田重家について
『金沢古蹟志 第11編』巻28 p.11「富田主計重家伝」 名人越後守重政の長男だったが、父に先だって没した。その弟の宗高が主計を称したが、早世して子がなく、断絶したと書かれている。
『北陸の剣豪』(118415518)p.185-186
『加能郷土辞彙』(初版)p.633「富田重家」
<追記>
富田蔵人高定の大聖寺城で死ぬさまを前田家に報告した資料はないか、家臣の息子が報告した内容で、死ぬ前に高定と話した約束が文書に残っているはずと追加の質問があった。以下に慶長5年の大聖寺城での戦における富田高定の記述が載っているものを記す。
・『北陸の剣豪』(118415518)p.206-211「富田蔵人」
・『超訳越登賀三州志』(113244436)p.213-214
・『加賀藩史料 第1編』(11801624)p.761-773「八月三日。前田利長大聖寺城を攻めて之を陥る。城主山口宗永その子修弘之に死す」
・『加賀藩史稿 5』(119544888)「列伝第七 富田高定」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000232792