レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/11/1
- 登録日時
- 2017/03/17 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:32
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000445
- 質問
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解決
【養清寺について】 「金沢古蹟志」に記載のある「泉養清寺」の所在地は現在の何処にあたるのか。古地図などで確認できるか。また現在、辰己町にある「養清寺」は泉から移転したものなのか。これらのことを調べられる資料はないか。
- 回答
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『金沢古蹟志 第7編』巻18 p.42に「泉養清寺」の記載あり。
○「泉養清寺」が現在のどこにあたるか。
該当する地域の古地図がなく確認できなかったが、『金沢城下南部の歴史』(11920094)に養清寺について記載があった。詳細は以下のとおり。
絵図では、『金沢市史 資料編18 絵図・地図』別刷17「金沢城下図」(延宝年間)、『金沢・北陸の城下町』(119952792)所収「金府大絵図」、『城下町金沢の人々』(119661481)所収「安政頃金沢町絵図」、『フォーラム・金沢』(11920317)付録「金沢城下町絵図」(天保2、3年)等を見たが、「養清寺」の記載は見当たらず。『ふるさと石川歴史館』(118377936)p.305「天保6年金沢城下絵図」及び『金沢市史 資料編18 絵図・地図』p.19「金沢城下絵図 文政13年」に泉村の家並が描かれているが、詳細は判読できなかった。
文献では、『加越能寺社由来 上巻』p.307に養清寺の由緒書が収められており、所在地は泉出町(泉新町ともいう。現泉2-3丁目)と記載されている。「当地敷地百九拾五歩藪天満宮江従村方寄附地」と書かれているので、藪天満宮と隣接しているか。
『金沢城下南部の歴史』(11920094)p.505「宝暦六年書上」では養清寺を「天台宗 道心達善」(上記由緒書によると初代)と比定している。また、p.9「図2 文政金沢地図・泉野村古地図をもって書く」の5及びp.423「泉野台神社及び寺院位置図」の65に養清寺の位置が記されている(泉村から有松村に至る左角)。
その他、本書等における養清寺の記載を年代順に並べると以下のとおり。
享保13年(1728) 泉出町ができる(p.70)。
享保18年(1733) 石川郡柏野四ツ屋から移転する(『弥生の明日のために』(119579005)p.49)。
寛延3年(1750) 泉村の道心2軒の書上あり(p.373)。
宝暦6年(1756) 泉村に「道心達善」居住す(p.334)。
文化3年(1806) 由緒書提出、この頃までに「養清寺」の寺号を獲得する。
文化8年(1811) 本光寺上地町に「道心教善後家ちよ」(苧かせ)居住す(『金沢町名帳』p.9)。
(この頃より数十年無住にて尼居住、『金沢古蹟志 第7編』巻18 p.42)
安政5年(1858) 泉野村・泉村・地黄煎村領相対卸地調理書上」に「一、百八拾壱歩三分 泉村領 養清寺境内相対卸」と記載される(p.338-339)。
明治2年(1869) 「泉野村等高免家数書上」の「泉村」の項に「一、壱ヶ寺 天台宗 養清寺」と記載される(p.287)。
明治5年(1872) 養清寺再興
『金沢市六斗林ものがたり』(119771320)巻頭地図「明治二年の金沢図 泉野調練場付近」の泉村付近に「ヨウセイ寺」の記載がある。
『弥生の明日のために』(119579005)p.16「弥生校下区域図」、p.38「明治2~3年金沢図」に養清寺の記載がある。また、p.112に養清寺の番地と外観写真が掲載されている。
○辰巳町にある養清寺が、泉地区から移転されたかどうか
平成7年11月26日北國新聞24面に「旧街道の寺 郊外へ」の見出しで養清寺の移転についての記事が掲載されている。また、当時の住宅地図等で泉3丁目の養清寺の所在地が確認できる。
<追記>
本レファレンス後、『いずみ界隈の歴史』(109241527)が刊行された。
『三馬公民館 五十年の歩み』(119703474)p.207-209「「養清寺」その後に」、養清寺の創建から辰巳町に移転するまでの経緯がまとめられている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000212076