レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012/7/21
- 登録日時
- 2016/03/29 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:30
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000066
- 質問
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解決
【「能登はやさしや土までも」の言葉の原典について】 「能登はやさしや土までも」の言葉の原典は何か。田辺正己(タナベマサオノ)の書いたものではないのか。
- 回答
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・田辺政己の書いたもの(『能登日記』等)では確認できなかった。
・『能登のくに 半島の風土と歴史』(118391710)のp.30~33に西山郷史氏がこの言葉について、元禄9年の初出と、論考している。具体的には以下のとおり。
a.もともと労作歌の一部であったらしい。「○○泥棒、△△盗人、能登はやさしや土までも」だったとの伝えがある。
b.1696年(元禄9)に能登をめぐった加賀藩士、浅加久敬が『三日月の日記』の中で書き記した。
c.浅加久敬は1709年(宝永6)の旅日記『能登浦伝』にもこの語句を書き記している。
d.18世紀末に九淵斎由己が『能登の海』の中で書き記している。
e.1850年(嘉永3)に森田良郷が著した『続咄随筆』にも記されている。
f.森田柿園が『能登志徴』に引用した太田道兼の「能登誌」にも記されている。
・平成4年11月17日 北国新聞15面に「土までも」か「人殺し」かの検証記事が載っている。
・平成23年1月5日 北国新聞32面に「能登はやさしや土までも」
原点は藩士の日記として検証記事が載っている。浅加久敬が「能登はやさしや」と感嘆したのが二宮道においてであったこと、「つち」は「土」ではなく「槌」とする説があることを指摘する。
〈参考文献〉
a.『石川県鹿島郡誌 上巻』(11823164)p.855「民謡童謡」
「能登は極楽越中は地獄(越中どろぼに加賀ぬすと)能登はやさしや土までも」
b.『続能登路の旅』(11824816)「三日月の日記」浅加久敬/著p.4
「七まがりとて、いとけはしき坂を過ぎて暫らく休らふ。坂は是ばかりにやと問えば、しやくし峠とて、こゝよりはいやましたる難所ありと答ふるにぞ、つかれもいやますこゝちするまゝ。爰よりもいくすくひほど多からんしやくし峠の道のわるさはといへば、心なき馬子なれども、ふたよそひほどまさらんかと打笑ふもやさし。されば杵歌にも、能登はやさしやつちまでもとうたふも、これならんとをかし」
c.『続能登路の旅』「能登浦伝」浅加久敬/著p.50
「宿の主は塩屋の何某、心ある人にて、玉だれのこがめに酒を入持出で、けふはめでたきせくにさふらふ。まづうとも草の?(モチヰ)をいはひ、桃の酒をくみ給へと興をすゝめしは、かゝる田舎のはてとも見えず、こゝろざしやさし。まことにちまたの童謡にも、能登はやさしやといへるもさぞと思はる」
d.『続能登路の旅』「能登の海」九淵斎由己/著p.150「能登国風」
「凡て此国に生ずる所の産物多くして、盡く論じ難し。其風俗の内外に異る事有を以て、更に是を考ふるに惣其一を以て百を論ずべからずと云へども、古人のいはゆる里巷歌謡の事も亦取るべきあれば、古諺に能登優哉焉至其土(ノトハヤサシヤツチマデモ)と云へる伝聞の事捨つべきにも非ず」
e.『咄隨筆』(11824845)「続咄隨筆」森田良郷/著p.119-120「産神村の良民」
「北陸能州は辺地なり。(中略)去れば此国の村里の人の風俗質朴にして、古来の篤実を残せり。是ひとへに余国の人に交らざる故成べし。越の諺に、能登はやさしや土までもといへり」
f.『能登志徴 下編』森田柿園/著p.361「三崎の雀踊」
「寔に此国の士風古代残りて、能登はやさしや土までも。と諺にいひしに」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000190040