レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年01月01日
- 登録日時
- 2016/02/25 10:10
- 更新日時
- 2016/02/25 10:10
- 管理番号
- 市川20160101-06
- 質問
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解決
本行徳1丁目の自性院にある勝海舟の歌碑「よき友の消えしと聞くぞ我この方心いたむるひとりなりたり」について、案内板には「行徳から奉公に上がった娘を悼んだ歌」とあるが、熊谷伊助の追悼歌という説もある。どちらが正しいのか。
- 回答
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自性院は行徳観音霊場第4番札所。
境内の案内板には「勝海舟邸に奉公に上がり、海舟に愛された娘が亡くなり、その死を悼んで自筆(?)の歌をよんだものを碑に刻んでいる。」とあり。
「行徳てらまち会」への照会によると、案内板は平成17年の市への「景観まちづくり」提言書を受け、順次、市川市都市計画課により設置されたもので、各寺社の案内板の内容は、その寺社に一任して作られたとのこと。
『観音札所のあるまち行徳・浦安』(中津攸子/文,石井久雄/写真 中山書房仏書林 1984)p.32-33に、「秋本久兵衛の娘が勝海舟の邸に奉公に上がり、海舟に愛されたらしい。(中略)お宿下りをし、亡くなった。(中略)その死を聞いて勝海舟が自筆の歌を送ってきたのを碑に刻んである。」とある。
ただし、以下の資料では、熊谷(松屋)伊助追悼歌説が採用されている。
『勝海舟全集 別巻来簡と資料』(勝海舟/著,勝海舟全集刊行会/編 講談社 1994)p.832には、「松屋伊助追悼歌碑」として紹介。『幕末の市川:企画展図録』(市立市川歴史博物館 2003)p.44でも、「勝が、「よき友」熊谷伊助の死を悼んで建てたもの。「日記」の中には、「松屋伊助」と記されている。伊助は、陸奥国松沢(現岩手県千厩(せんまや)町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来する。(中略)伊助は、奉公した江戸の酒屋の縁で行徳出身の妻と結婚したと言われている。」との掲載あり。
『市川の文学 詩歌編』(「市川の文学」調査研究会/編集 市川市文学プラザ 2011)p.135でも、「伊助の追悼歌」説を採用している。
以上より、史実としては、伊助を追悼した歌であるが、案内板は、地元での俗説を紹介したものとして捉えられるといえる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000188524