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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000151726
提供館
(Library)
大阪府立中央図書館 (2120005)管理番号
(Control number)
6000005257
事例作成日
(Creation date)
2013/12/05登録日時
(Registration date)
2014年04月02日 00時30分更新日時
(Last update)
2014年04月03日 21時55分
質問
(Question)
「織田信長家臣人名事典」に掲載されている「国富(大塚)重照四郎兵衛」、「国富(大塚)重利一学」について調べてください。
岡山県立天城高校の前身になる天城中学を創立した大塚香氏の伝記に掲載されている系図には、三河国加茂郡大塚村(愛知県)に住んで織田信長に仕えていた「国富四郎兵衛重照」という人から記しています。重照は本願寺攻めの時に討死し、長男重利は備前国児島郡大崎村にやってきて名を大塚と改めました。重照の弟文左衛門光忠は徳川家に仕え、その子孫大塚政右衛門という人が江戸本所に住んでいたそうです。
回答
(Answer)
『織田信長家臣人名事典』に「国富(大塚)重照四郎兵衛」、「国富(大塚)重利一学」が掲載されているかどうかについて調査いたしましたところ、この図書に掲載されている「国富姓」と「大塚姓」は下記のとおりです。また『戦国人名事典』、『戦国大名家臣団事典』、『姓氏家系大辞典』についても記しております。
                           
 1.『織田信長家臣人名事典』<281/220N>
「国富姓」は掲載されていません。
「大塚姓」
 
「大塚新八郎」:近江生没年不詳。相撲取り天正6年(1578)2月29日、安土で選ばれた23人の相撲取りの一人(公記)→出典:太田牛一著『信長公記』
 
「大塚孫三」?~天正10年(1582)6月2日『甫庵』に信長の「小々姓」として 大塚弥三」が載っているが、同一人であろう。本能寺で討死した。(公記)→出典:太田牛一著『信長公記』
「大塚又一郎」?~天正10年(1582)6月2日『甫庵』には信長の馬廻とあるが、正しいであろう。妻は生駒親正の娘という。(重修譜)天正6年(1578)の元旦、信長が重臣たちに盃を賜った時、矢部家定・大津長昌とともに酌を務めた(公記)→出典:太田牛一著『信長公記』同年6月、矢部・大津・菅屋長頼ら信長の代表的側近たちとともに、播磨神吉攻めの検使として派遣されている本能寺で討死した(公記)太田牛一著『信長公記』
2.『戦国人名事典』<281/23N>
「国富貞継」1546-1632(天文15-寛永9)
 (源右衛門)備前の宇喜多氏の臣。もと上道郡比丘尼山城主。秀家時代には八百石を与えられ鉄砲頭を勤めた。天正9年(1581)毛利と戦った八浜合戦で奮戦した。文禄元年(1572)、朝鮮役に際しては宇喜多秀家に従い渡海した。慶長4年(1599)重臣間の 紛争により主家を退去したが、のち、同じく主家を退去して翌年之関ヶ原合戦後に備中庭瀬城主となった戸川辰安に仕えた。
「大塚大膳亮」生没年不詳 常陸国佐竹の臣 竜子山城主大塚氏の一族。永禄6年(1563)天正11年(1583)の2度大膳亮が大檀那となって依上保開田村十二天社の造営を行った。
  
「大塚隆成」生没年不詳(掃部助・信濃守・筑雄)陸奥国岩城重隆の臣。佐竹氏の臣、竜子山城主大塚氏の庶流で常陸国多珂郡菅俣城主。宗家信濃守正成の後を継いで竜子山城に入った。永禄5年(1562)に隠居。
「大塚隆通」生没年不詳(掃部助)常陸国佐竹の臣 天正13年(1585)、義重に随って陸奥に出陣。
「大塚親成」生没年不詳(掃部助・信濃守)隆成の男 竜子山城主文禄2年(1593)の朝鮮派平の際には備前名古屋に在陣した。
「大塚八郎右衛門」生没年不詳 近江国大塚城(蒲生郡)に拠った土豪。近江国守護佐々木(六角)定頼に仕え舟奉行を務めた。
「大塚政成」生没年不詳 常陸国佐竹の臣。竜子山城主大塚行成の男。大塚氏は古くは佐竹氏に属していたが 文明17年(1485)以来、岩城氏に属していた。天文21年(1552)、佐竹一家の待遇を受けてその麾下に属し永禄元年(1558)には岩城・佐竹の両氏の間に入り和睦を成り立たせた。
「大塚八木米右衛門」生没年不詳土佐国幡多郡下長谷城主。天正3年(1575)長宗我部氏に降伏したといわれる。
「大塚与三右衛門」出雲尼子氏の家臣。晴久・義久の側衆で二代にわたって重用された。永禄9年(1566)、家老宇山久兼が毛利  氏に内応したと讒言し、無実とわかったため、尼子義久の面前で大西十兵衛らに富田場内で殺害された。
3.『戦国大名家臣団事典 東国編』『戦国大名家臣団事典 西国編』<281/130>
 上記以外でこの図書に掲載されているものをあげております。
『東国編』
「大塚越後守」実名は不詳。遠江の宇奈・横川の代官職を務めている。「天野文書」
「大塚資台」弾正忠を称し、のち出雲守となる。この大塚氏の系統は不明だが、おそらく多珂郡竜子山城主の一族であろう。永正の頃、資台の祖父および父とみられる山城守と弾正忠は古河公方足利政氏・高基父子や上杉顕定から書状や感状を与えられているが、佐竹に属したのはこの資台の代であったらしい。弾正忠・出雲守の官途・受領は、天文-永禄の頃、ともに佐竹義昭から与えられたものである。(「家蔵文書」24)
「大塚弾正忠」実名は不詳。出雲守資台の子。佐竹義重に仕えた。天正10年(1582)12月義重から父と同じ出雲の守の受領を与えられた。慶長5年(1600)孫の十郎は義宣からやり衆百人の指南をまかせられている。(「家蔵文書」24)子の弾正忠と孫の十郎は秋田へ移った。
4.『姓氏家系大辞典 第2巻 キ-ト』<288/13/(2)>
「国富」若狭、出雲、日向に国富庄あり。その他、丹波、備前等にこの地名存す。
1)若狭の国富氏 遠敷郡国富庄より起こる。百合文書、建久年源平両家祇候輩交名に、国富志則家見ゆ。
2)丹後の国富氏、丹波郡国富保あり、注進丹後国諸庄郷保惣田数目録帳に「丹波郡三重郷、七町三反百十九歩、国富兵庫助」と。名族なりしや明らかならん。
 田郡にあり。古くは作東の北部に於いて武威を振るひしが、後有元氏の一族に属す。天正7年4月、三星城主後藤勝基・宇喜多直家の攻 むる所となる。国富治助利教は後藤氏を助けしも、戦利あらず、後藤氏滅び.宇喜多氏餘族を掃蕩す。
回答プロセス
(Answering process)
事前調査事項
(Preliminary research)
岡山県立天城高校の前身になる天城中学を創立した大塚香の伝記に掲載されている系図には、三河国加茂郡大塚村(愛知県)に住んで織田信長に仕えていた国富四郎兵衛重照という人から記しています。重照は本願寺攻めの時に討死し、長男重利は備前国児島郡大崎村にやってきて名を大塚と改めました。重照の弟文左衛門光忠は徳川家に仕え、その子孫大塚政右衛門という人が江戸本所に住んでいるそうです。
NDC
日本  (281 8版)
参考資料
(Reference materials)
織田信長家臣人名辞典 谷口/克広∥著 吉川弘文館
戦国人名事典 阿部/猛∥編 新人物往来社
戦国大名家臣団事典 東国編 山本/大∥編 新人物往来社
戦国大名家臣団事典 西国編 山本/大∥編 新人物往来社
姓氏家系大辞典 第2巻 太田/亮∥編 角川書店
キーワード
(Keywords)
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
人物・団体
質問者区分
(Category of questioner)
個人
登録番号
(Registration number)
1000151726解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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