日本とプロイセンとの間の修好通商条約は、1861年1月24日(万延元年12月14日)、プロイセン全権のオイレンブルク(Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg)と外国奉行の村垣範正(むらがき・のりまさ)らとの間に調印された条約で、これにより日本とドイツの前身であるプロイセンとの間に公式な関係が樹立されました。この条約書の原本は、史料編纂のため東京帝国大学史料編纂所へ貸出中、1923年(大正12年)9月の関東大震災により焼失しました。
1860年9月(万延元年7月)に来日したオイレンブルクは、日本に対してプロイセンを盟主とする関税同盟諸国との条約締結を繰り返し要求しました。当時、日本国内では攘夷運動が高まりをみせており、交渉過程においてプロイセン使節の通訳を務めたヒュースケンが薩摩藩士に殺害される事件が発生しました。また日本側で交渉にあたっていた外国奉行の堀利熙(ほり・としひろ)が交渉妥結の直前に自害するなど交渉には大きな困難が伴いましたが、結果的に日本はプロイセン一国と修好通商条約を結ぶこととなりました。この条約交渉の経緯については、明治初期に外務省が編纂した幕末外交史料集『続通信全覧』の「類輯之部 修好門 孛国条約一件」などに記されています。
なお、2011年(平成23年)は条約調印から150年にあたり、これを記念して「日独交流150周年」として日本とドイツで様々な記念イベントが開催されています。
(注)普魯西/孛漏生=プロイセン/プロシア