パリ講和会議は、第1次世界大戦後、ドイツとの講和条約を議定するため、1919年(大正8年)1月から同年6月まで開催されました。日英同盟の誼(よしみ)に従いドイツに対して宣戦していた日本は同会議に首席全権の西園寺公望をはじめ、牧野伸顕、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使、後に追加)を全権とし、総勢約60名からなる全権団を送りました。
この全権団に随行した日本人のなかには、後に日本外交の中核を担うこととなる人材も含まれていました。そうした人々としては、近衛文麿、吉田茂、芦田均、松岡洋右らが挙げられます。また、同じく会議に参加した有田八郎、重光葵、斎藤博、堀内謙介ら当時少壮の外交官達は、初めての国際会議で露呈した日本の準備不足から外交力強化の必要を痛感し、会議開催中のパリで「門戸開放」「省員養成」「機構の拡大強化」の三点を軸とした外務省革新綱領を作成するなど外務省革新運動に乗り出しました。帰国後、彼らは外務本省内で本格的な活動を開始し、多くの省員の賛同を得て「革新同志会」を結成、その成果は省内に正式に設置された「制度取調委員会」に継承されました。1921年(大正10年)から23年(大正12年)にかけては外務省機構、人事、予算が最も膨張した時期ですが、それにはこの革新同志会運動が与えた影響が少なくないとされています。
こうしたパリ講和会議における日本人の動向やその後の外務省革新運動の経緯については、外務省編『外務省の百年』に詳述されています。