レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010/06/24
- 登録日時
- 2010/10/28 02:03
- 更新日時
- 2010/11/16 14:29
- 管理番号
- 埼熊-2010-043
- 質問
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解決
鎌倉時代の地頭制度で、はじめて女性で地頭になったのは誰か。
- 回答
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女性で初めて地頭となった人物が特定できる資料は見つからなかった。
次のインターネット情報を紹介する。
小山市(栃木県)のウェブサイト中「市長からのメッセージ」の中に「寒川尼は、文治3年(1187年)、「鎌倉幕府成立に大功あり」と頼朝から、女性初の地頭に任命されました。」
(http://www.city.oyama.tochigi.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1518 小山市 2010/07/23最終確認)
鎌倉前期には、女性に地頭職を与える例が多かった。『国史大辞典 6』(吉川弘文館 1985)「地頭(鎌倉時代)一覧」があり、文治元年から元弘3年の間の地頭を確認できる。
- 回答プロセス
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『国史大辞典 6』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1985)
p907 〈地頭〉の項に、「地頭(鎌倉時代)一覧」(p908-930)あり。地方毎・年ごとに地頭名が載っている。文治元年から元弘3年に至る間の諸国・郡・荘・保・郷・村等における「地頭」と確認される人名を収録している。
(例:p908大和鳥見荘に氏名「某」、通称「尼御前」という表記あり。(所見年月日:建長6.2.18 典拠:因明短釈裏文書)建長4年は1252年。他にも「女」「室」「局」「妹」「母」などが通称に見られる地頭が多数あり。)
《Google》を〈地頭 & 鎌倉 & 初めての女性〉で検索するが、見つからず。
《Google》を〈女性初 & 地頭 & 鎌倉〉で検索した結果から、
小山市のウェブサイト「市長のメッセージ」に、
「寒川尼は、文治3年(1187年)、「鎌倉幕府成立に大功あり」と頼朝から、女性初の地頭に任命されました。今でいう、男女共同参画の先鞭をつけた女性でありました。」とあり。
(http://www.city.oyama.tochigi.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AM040000 小山市 2010/07/23最終確認)
『国史大辞典 6』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1985)を見ると、p913に「国名・下野 所在地・寒川郡 阿志土郷 氏名・某 通称/官途・小山朝光母 典拠・皆川文書 所見年月日・文治三.一二.一」とあり。
地頭制度関係の図書
『歴史科学大系 16 女性史』(歴史科学協議会 1998)
p63 岡田章雄著 「中世武家社会における女性の経済的地位」
p66「女性が地頭として事実政務に当ってゐたと考へられる一例として吾妻鏡、文治3年10月5日の条には、『於武蔵国河越庄者。賜後家尼之処。名主百姓等。不随所勘之由。(後略)」という記述あり。
これにより、「吾妻鏡」の該当箇所を確認する。
『吾妻鏡 3』(五味文彦編 吉川弘文館 2008)
p139-140上記箇所の現代語訳あり。(以下引用)(文治3年)
「五日、壬申。河越太郎重頼は伊予前司(源)義顕(義経)に縁坐したために誅されたが、(頼朝は)残された人々を不憫に思われたので、武蔵国河越庄を後家尼(比企尼の娘)に賜ったところ、名主・百姓らが尼の支配に随わないという風聞があったので、今後は庄務といい、雑務といい、全てその尼の命令に随うよう仰せられた。」
巻末の注記から「後家尼」とは「生没年未詳。比企尼の娘。河越重頼の妻。娘が源義経 の妻となる。」
また、「庄務」とは「庄園経営や年貢の徴収などの事務」
※文治3年は1187年
《CiNii》を〈地頭 & 女性〉で検索した結果から
田端泰子「裁許状に見る女性の知行権--地頭職をもつ女性を中心に」(『研究紀要 (2)』 83-108 1997-03 世界人権問題研究センタ- )
この論文は、次の図書に収録されている。
《BOOKPLUS》を〈地頭 & 女〉で検索する。
『日本中世の社会と女性』(田端泰子著 吉川弘文館 1998)
p159 「裁許状に見る女性の知行権--地頭職をもつ女性を中心に」あり。
「鎌倉期の前半には、地頭職が女性に与えられた例が多い。」とし、例として、「建久五年(一一九四)、熊野鳥居禅尼は源頼朝から但馬国多々良岐荘の地頭職に補任された。」とあり。
この著者の他の著作を調査する。
『日本の中世 4 女人、老人、子ども』(田端泰子、細川涼一著 中央公論新社 2002)
p128 「娘の務める公事とジェンダー」に女性が地頭職を務めた際に実質的な仕事をしていたことに関する記述あり。具体的に初期のころの地頭の名はあがっておらず。
『日本中世の女性』(田端泰子著 吉川弘文館 1987)
p22 「4 所領知行と女性の地位」という章の中に梶原景高の妻が頼朝から尾張国野間内海以下所々を拝領しているという記述あり。(p74の注によると正治2年6月29日 条)※正治2年は1200年
調査済み資料
『中世公家の家と女性』(後藤みち子著 吉川弘文館 2002)
p158 「第1章 地頭職の相伝と女性の地位」あるが、記述が13世紀のことで、鎌倉時代初期ではない。
『日本中世女性史の研究』(脇田晴子著 東京大学出版会 1992)
『日本中世女性史論』(田端泰子著 塙書房 1994)
『中世村落の構造と領主制』(田端泰子著 法政大学出版局 1986)
『鎌倉時代の女性』(神奈川県立金沢文庫 1995)
『守護と地頭』(安田元久著 至文堂 1967)
『地頭 研究史』(関幸彦著 吉川弘文館 1983)
『家族と女性』(峰岸純夫編 吉川弘文館 1992)
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 地頭
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000072978