レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 大阪市立中央図書館 (2210006) | 管理番号 (Control number) | 10-2C-200912-01 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
事例作成日 (Creation date) | 2009/06/09 | 登録日時 (Registration date) | 2009年12月15日 02時10分 | 更新日時 (Last update) | 2010年06月29日 20時58分 | |||||||
質問 (Question) | 江戸時代の歴代「中町奉行」の在職期間を知りたい。 | |||||||||||
回答 (Answer) | 江戸時代で三奉行制だったのは、元禄15年(1702年)に鍛冶橋内に「中町奉行所」ができてから、 享保4年(1719年)に廃止されるまでの16年間のみ。 この間、三奉行所の改廃・移転が度重なり、呼称の「北・南・中番所」を用いる資料と、 相対的な位置による「北・南・中番所」を用いる資料がある。 「名奉行仕置帖(18) 中町奉行・坪内能登守定鑑」(「歴史読本」2007年6月号)によると、 中町奉行に就任したのは、丹羽長守(にわながもり)と坪内定鑑(つぼうちさだあき)のみ。 丹羽長守は元禄15年(1702年)閏8月15日に中町奉行に就任。 坪内定鑑は宝永4年(1707)4月22日に南町奉行から中町奉行に転任。 丹羽長守は同日、中町奉行から北町奉行に転任、とあり。 これは宝永4年に、最北の常盤橋内にあった奉行所(北町奉行所)が、最南の数寄屋橋内に移転し、 鍛冶屋橋のふもとにあった奉行所(南町奉行所)が位置的には「中」に、鍛冶屋橋と呉服橋の中間にあった奉行所(中町奉行所)が位置的には「北」になったための転任。 そのため、「国史大辞典」13巻“町奉行(江戸)”の項「町奉行一覧」には 丹羽長守 元禄15年(1702年)閏8月15日に中町奉行に就任、正徳4年(1714年)1月26日辞任とあるが、宝永4年(1707)4月22日以降の肩書きは「北町奉行」であると思われる。 | |||||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1.商用データベース「Japan Knowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」 1)“中町奉行”で全文検索→該当なし 2)「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「町奉行」の項の「町奉行所の変遷」に、以下のような記述あり。 「1702年に呉服橋門内の南側に新番所が建てられ、先の数寄屋橋門内の南番所が新設されたため、 中(なか)番所と称されたが、1719年(享保4)に廃止となる」 3)「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「町奉行」の項の参考文献「江戸町人の研究 第4巻」の内容を確認 →索引に「中町御番所」とあるが、該当ページには歴代奉行名はなし 2.「国史大辞典」を調べる →索引を見るが“中町奉行”はなし。“町奉行(江戸)”の項は13巻にあり。 「国史大辞典」13巻“町奉行(江戸)”の項(p80の3段目)に、奉行所(北・南・中)の説明あり。 町奉行所が八重洲河岸内(北)と呉服橋内(南)に設けられたのは慶長9年からといわれ、 元禄15年の丹羽の任命で鍛冶橋内にも新役所(中)が設けられた。 しかし、享保4年の坪内定鑑の辞職後は2名制に復帰。 鍛冶橋役所は廃止された。 「町奉行一覧」(p81)あり。それに歴代の町奉行と捕職年月日/転免年月日あり。 「中(町奉行)」として書かれているのは、丹羽長守と坪内定鑑のみ。 丹羽長守 中町奉行として元禄15年(1702年)閏8月15日就任、正徳4年(1714年)1月26日辞任 坪内定鑑 南町奉行として宝永2年(1704年)4月28日就任、享保4年(1719年)1月28日 中町奉行として辞任 →「町奉行」の項の参考文献「江戸町人の研究 第4巻」を確認。 p12に「町奉行就退任年表」あるが、奉行所の呼称が「常盤橋御番所」など地名表記のため、 だれが「中町奉行」に該当するのかが分からず。 3.江戸幕府の主要奉行の歴代一覧掲載資料を確認 (当館職員が、掲載を記憶していたもの) →「江戸時代&古文書虎の巻」p57に「歴代江戸町奉行一覧」あり。 捕職年月日/転免年月日ではなく在職期間が書かれているので、国史大辞典より見易いが、 中番所があった1702年から1719年の間の中町奉行は、1702-1714年 の丹羽長守のみで、 1714-1719年の中町奉行については記載なし。 4.当館所蔵資料を“江戸幕府×町奉行”で検索 1)「江戸時代奉行職事典」→歴代奉行名はなし 2)「町奉行」→p338に「江戸町奉行」の歴代奉行一覧があるが、1702-1714年の丹羽長守のみで、 1714-1719年の中町奉行については記載なし。 3)「江戸の町奉行 」→索引に「中町奉行」とあるが、該当ページには歴代奉行名はなし 5.当館所蔵資料で江戸時代の辞典類を確認 1)「ビジュアル・ワイド江戸時代館」→索引に「中町奉行」とあるが、該当ページには歴代奉行名はなし 2)「事典しらべる江戸時代」→索引に「中町奉行」「中番所」なし 6.商用データベース「MAGAZINEPLUS」(日外アソシエーツ雑誌論文情報)を“中町奉行”で検索 →「歴史読本」(2007年6月号 52巻7号)p366-371「名奉行仕置帖(18) 中町奉行・坪内能登守定鑑」 ・中町奉行所は1702年8月15日に増設され、1719年1月28日に廃止されたので、16年5ヶ月間のみ存在したこと、 ・中町奉行に就任したのは、丹羽長守と坪内定鑑のみ。 ・坪内定鑑は宝永4年(1707)4月22日に南町奉行から中町奉行に転任。 享保4年(1719年)1月28日高齢のため辞職。同時に中町奉行所は廃止された。 2.の「国史大辞典」「丹羽長守 元禄15年(1702年)閏8月15日就任、正徳4年(1714年)1月26日辞任」と、 6.の歴史読本掲載記事の「坪内定鑑は宝永4年(1707)4月22日に南町奉行から中町奉行に転任」が矛盾するが、 これは宝永4年に、最北の常盤橋内にあった奉行所(北町奉行所)が、最南の数寄屋橋内に移転し、 鍛冶屋橋のふもとにあった奉行所(南町奉行所)が位置的には「中」に、 鍛冶屋橋と呉服橋の中間にあった奉行所(中町奉行所)が位置的には「北」になったため、 「中町奉行」だった丹羽長守が宝永4年(1707)4月22日に「北町奉行」、 「南町奉行」だった坪内定鑑が「中町奉行」に転任したため。 奉行所の位置変遷については、「町奉行」p55-「三町奉行所の変転」に詳しい。 | |||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||||||
NDC |
| |||||||||||
参考資料 (Reference materials) |
| |||||||||||
キーワード (Keywords) |
| |||||||||||
照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||||||
備考 (Notes) | ||||||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 人物 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | |||||||
登録番号 (Registration number) | 1000060800 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |