調べ方マニュアル詳細
- 調べ方作成日
- 2015年12月01日
- 登録日時
- 2015/12/25 15:07
- 更新日時
- 2017/07/14 18:30
- 管理番号
- 市川201512-2
- 調査テーマ
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完成
八幡のやぶ知らず(市川について調べるには 2)
- 調べ方
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○「八幡のやぶ知らず」とは・・・
国道14号線をはさんだ市川市役所の向かい側、鳥居と祠(ほこら)に護られた小さな竹薮(たけやぶ)があります。ここには、一度はいったら二度と出てこられなくなるという伝承があります。広辞苑にも「八幡の藪知らず」としての項目があり、「ここに入れば再び出ることができないとか、祟り(たたり)があるといわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえる」と記されています。
江戸時代に著された地誌や紀行文にも「八幡不知森(やわたしらずのもり)」として記載されていますので、その謂れを、図書館の文献を使って調べてみましょう。
○古典籍を調べるには・・・
1.『国書総目録』(岩波書店 1964 補訂版1989)
日本で書き著された書物(漢籍・仏典などは除く)のことを「国書」と言い、特に江戸時代以前に書かれた文献を調査するときの基本的な目録です。巻数、内容の種別、著者や成立年代、写本・版本の別、翻刻・複製の存在、所蔵機関などが記載されています。
2.『古典籍総合目録』国文学研究資料館編 (岩波書店 1990)
国書総目録の増補版です。国書総目録とあわせて調べます。
明治期以前の書写あるいは印刷された和古書等を「古典籍」といいます。
例えば、頭に “葛飾” が付く古典籍を『国書総目録』で調べて見ましょう。
その中で「葛飾記」の写本は、どこで所蔵しているか、また活字資料があれば、どの叢書に収録されているかがわかります。
○古典籍で記載箇所を調べる
1.「葛飾記」下巻 青山某 1625(寛永二)年
葛飾郡中の名所旧跡、神社仏閣の縁起などを解説した当時の観光ガイド的な地誌文献。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」(房総叢書刊行会/編 1942)p353~355 010156408
『燕石十種』第5巻に所収。江戸時代の随筆集で文久年間に成立(中央公論社 1980)p139~141 013270059
2.「葛飾誌略」 馬光 1810(文化七)年
著者は行徳在住の明主。現在の市川市市域全域を含み、古文・詩歌掲載の地誌。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第6巻「地誌其一」(房総叢書刊行会/編 1941)p484 010156373
⇒『葛飾誌略の世界』(鈴木和明/著)文芸社 2015
3.「勝鹿図志手繰舟(かつしかずしてぐりぶね)」 鈴木金堤 1813(文化十)年
上下二巻の構成で、上巻は葛飾の浦を中心に行徳領の紹介、下巻は句集で葛飾北斎、谷文晃らの挿絵入り。
『勝鹿図志 手繰舟』影印・翻刻・注解(高橋俊夫/編著)崙書房 1980 p26~27 p112~114 010171398
⇒『勝鹿図志手ぐり舟』行徳金堤の葛飾散策と交遊録(宮崎長蔵/著)ホビット社 1990 p169~174 014194050
「葛飾記」「葛飾誌略」「勝鹿図志手繰舟」の三つは葛飾三誌と呼ばれ、市川市域を知るためには「江戸名所図会」、「成田参詣記」の二つの絵図とともに欠かすことのできない貴重な文献と言われています。
4.「江戸名所図会」 齋藤月岑/編 長谷川雪旦/画 天保年間
『江戸名所図会』下巻(三冊のうち) 評論社 1996 原寸大のまま完全復刻。 016530465
⇒国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」でも無償で公開されています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994949/32
そのほか市川市域に関するものは「行徳船場」「徳願寺」等をはじめ15枚に及びます。
5.「成田参詣記」第一・二巻 中路定俊・定得 1858(安政五)年
⇒『現代語訳 成田参詣記』(若杉哲男・湯浅吉美/編) 成田山仏教研究所 1998 p161~ 016961210
⇒『成田参詣記を歩く』(川田寿/著) 崙書房 2001 p66~70 018033413
⇒『City Voice 市川の街から №20』特集:江戸名所図会を歩く 市川市広報広聴課1996 p15~27
6.「下総名勝図絵」 宮負貞雄 1845(弘化二)年
⇒『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」(房総叢書刊行会/編 1942)89p 010156408
⇒『宮負貞雄 下総名勝図絵』(川名登/編)国書刊行会 1990 368pに図版あり 013213099
7.『水戸佐倉道分間延絵図』第一巻:新宿・八幡 1806(文化三)年
江戸幕府が街道の管理のために、1800(寛政12)年、道中奉行に制作を命じた五街道分間延絵図の一つです。現在、原本は東京国立博物館等に所蔵されています。葛飾八幡宮や法漸寺と、街道を挟んで藪知らずが描かれています。(右図版参照)
8.「十方庵遊歴雑記」初編 津田大浄 1814(文化十一)年
⇒『遊歴雑記初編1』(朝倉治彦/編訂)平凡社 東洋文庫 1989 p92~94 013090794
9.「金ヶさく紀行」 中村国香 1845(明和二)年
⇒『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」p22
10.「神野山日記」 間宮永好 1854(嘉永七)年
⇒『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」p447~448
11.『嘉陵紀行』より「真間の道芝」 村尾嘉陵 1835(天保五)年
⇒国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」で無償公開されています。
12.『千葉県東葛飾郡誌』 1923(大正十二)年
第十六章 名所旧蹟 p1231-1232 060150959
○写真で調べる
1.『千葉写真大観』第四回 東葛飾郡の巻 千葉写真大観刊行会 1931
昭和初期頃、青い写真
2.『この街に生きる、暮らす』市川市文化国際部文化振興課 2014
p38~40 明治44~大正の頃
3.『目で見る市川 1958』
市川市市制二十五周年記念出版 市川毎日新聞社 1958
○伝説・昔話で調べる
「八幡のやぶしらずの竹は何本あるか」 『市川のむかし話』p112~、『市川のむかし話 改訂新版』p92~
旅人が子どもたちに捕らわれた大きなあぶを助ける。竹の数を正しく数えた者に褒美を与えるという高札を目にして、村人たちの止めるのを振り払い藪の中に入って行くと、助けたあぶが竹の本数を教えてくれる。
「八幡のやぶしらず」 『市川のむかし話・続』p123~、『市川の伝承民話【Ⅰ章 世間話】』p38~
将門の首を塩漬けにして都に送る時に、七人の武士が奪い返そうとするが、八幡の森あたりでいなくなり、代わりに七つの土人形に変わっていた。
「やぶしらずの機織り娘」 『市川のむかし話・続』p127~、『市川のむかし話【Ⅰ章 世間話】』p37~
やぶの中から機織りの音が聞こえてくるようになった。ある日、近所の農家に美しい娘が機織りの道具を借りに来たので貸したが、数日後に返しに来たときには血のりがついていた。
「やぶしらずのきつね」 『市川のむかし話・続』p131~、『市川のむかし話【Ⅰ章 世間話】』p38~
男の子が狐憑きになったときに、狼を祀る三峰山の掛軸をかけたら、怖がって追い払うことができた。
「やぶしらずに入った水戸黄門」 『市川のむかし話・続』p135~、『市川のむかし話 改訂新版』p88~
諸国を旅していた黄門様が供も連れずに森に入ると、白髪の老人に出会う。老人が語るには、平将門討伐のために、平貞盛は八門遁甲の陣を築き、討伐に成功するが、この地に死門の一角を残すことになり、わざわいを起こすことになるため、里人たちの出入りを禁じたとのこと。老人は「今回は許すが、強く戒めておけ」と言って黄門をやぶの外に返した。
歌舞伎の演舞「黄門記八幡大藪(こうもんきやわたのおおやぶ)」(明治11年11月)の題材になり、興行広告の錦絵(3枚組)として「不知薮八幡之実怪(しらずのやぶやわたのじっかい)」(月岡芳年/画)が知られています。
以下の資料にカラー図版が収録されています。
『芳年』(岩切友里子/編著)平凡社 2014 図版90ページ、解説文245ページ 102556337
藪に入った水戸公(図版右下の老人)の前に、魑魅魍魎を従えて白髪老人が登場する場面です。
資料編
以下は、前述した文献資料から「八幡の藪知らず」の記載部分をテキストとして抜き出したものです。伝説・昔話と読み比べてみてください。
※旧字体やルビは、底本に使った資料のとおりとした。
葛飾記
八幡宮鐘の銘並寶物
又、八幡宮鳥居まへより南方八わた町入口に八幡知らずの森と云フ古き森有り。森余り大キからず。高からず。然レども、鬱々として其中見エ透カず。古木朽木の類、幾年か人の手に觸れざる有り。此森の内に入るもの無ければ也。若シ入れば、竪(たちどころ)に駐(すく)み死して、出ヅる者なしと云ヘり。是は平親王将門、平の貞盛の矢にあたり、秀郷の為に討タれ給ひ、猶生ケる如くにして通り給ふ時、六人の近習、此所迄慕ひ來り、土の人形と顕れ、終に此森の中に入り不レ動。後、雨雪に解ケて終に土地と成れりと云ヘり。依って、此中の土を踏む者は、その崇りにて死して出デざると也。其所、昔より里諺に云ヒ伝へたり。然レども、此所相馬郡よりの順路に非る故いかゞ。松戸通りたるべきか。愚按ずるに、是は将門は葛原の親王の後胤たる故、葛飾の葛の縁を以て、近習の人の内にて、此所に其由緒を殘されたるなるべし。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」(房総叢書刊行会/編 1942)355p
葛飾誌略
一、八幡不レ知森。諸国に聞えて名高き杜也。魔所也といふ。又、平将門の影人形、此所へ埋めてありともいふ。又、日本武尊東征の時、八陣を鋪き給ふ跡とも云ふ。其外説々多し。予、古老に委しく尋ね聞きけるに、此所昔假遷宮の神也。故に敬して注連を引き、猥に入る事を禁ず。不浄を忌む心也。昔は今の街道にあらず。古八幡に中山道といふ字有り。其所街道にて、宮居も其所に北向にてあり。國初様御通行の砌、此街道を開く。並に宮居も今の所に遷し、大杜に造営有り。云々。此杜の地所、今は本行徳村の同地内に成りたり。八幡三不思議、杜、一夜銀杏、馬蹄石、是を云ふ。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第6巻「地誌其一」(房総叢書刊行会/編 1941)484p
勝鹿図志手繰舟(かつしかずしてぐりぶね)
日本武尊八陣を布(しか)せ給ひし跡なる故、人出る事あたはずと云伝ふ。按るに八陣の法は武内大臣初て漢土より学び来りて応神天皇に伝へ奉る。応神天皇は日本武の御孫也此天皇八陣の法よく熟し諳じ玉ひ国中大平なりしとぞ。所謂八陣には八本の幡有(る)所以(ゆへ)に後人、応神天皇を八幡武太神と崇め奉る。又云、御誕生の時、白幡八流下り立たるいわれにより八幡とも云といへり。かくあれど、景行天皇の代八陣の法日本に伝りたる事を聞(きか)ず。只、日本武尊の御陣所跡なれば恐れて入る事を禁ぜしものならん。
『勝鹿図志 手繰舟』影印・翻刻・注解(高橋俊夫/編著)崙書房 1980 112p
江戸名所図会
同所、街道の右に傍(そ)ひて一つの深林(しんりん)あり。方二十歩(ぽ)に過ぎず。往古(そのかみ)八幡宮鎮座の地なりと云ひ伝ふ。すなはち森の中に石の小祠(こほこら)あり。里老云ふ、人謬(あやま)ちてこの中(うち)に入る時は必ず神の崇(たたり)ありとてこれを禁(いまし)む。ゆゑに垣(かき)を繞(めぐ)らしてあり。(あるいは云ふ、むかし平親王将門(へいしんのうまさかど)、平貞盛(たひらのさだもり)が矢にあたり、秀郷(ひでさと)が為に討たれ、後(のち)六人の近臣と称する輩(ともがら)、その首級(しゆきゆう)を慕ひ、この地に至りし頃、この森の中(うち)に入りて動かず、終(つひ)に土偶人(どぐうじん)と顕(あらは)れたりしが、その後雷雨に破壊(はえ)せしより、この地を踏む者あれば必ずたたりありとて、大いに驚怖するといへり。又或人いふ、この森の回帯(めぐり)はことごとく八幡の地にして、森の地ばかりは行徳(ぎようとく)の持分(もちぶん)なりと。このゆゑに八幡村の中に入会(いりあふ)といへども、他の村の地なる故に、八幡の八幡しらずとは字(あざな)せしと。さもあらんか。)
『日本名所風俗図会4巻 江戸の巻Ⅱ』角川書店 1980 592p
成田参詣記
同所南の方にあり、方二十歩許り。往古八幡宮鎮座の地なりと云伝ふ。(今も法漸寺持なり)森の中に小石祠あり。稲荷を祭れり。里人云、若し人此中に入時は必ず神の崇ありとて垣を繞らして入ことを許さず。(一説に此森の辺八幡の地にして、森のみ行徳の地なり。故に八幡しらずと云とぞ。されどそれのみなれば垣を繞らして人を入れざる事やはある。必官社の址か又は国司などの塋域ならんか。里説に昔平将門の余類の霊の土偶人とあらはれたることありしなど云を思へば、墳墓の地にて土偶は殉葬儀のものなるべし。)
『市川市史 第六巻下』成田参詣記 198,203p
下総名勝図絵
八幡不知の森
同所街道南の側にあり。往古、八幡宮鎮座の地なりといひ傳ふ。森の中に小祠あり。里人の説に、人過ちて此の林中に入る時は、必ず神の祟りありとて、是を禁(いそ)しむ。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」(房総叢書刊行会/編 1942)89p
十方庵遊歴雑記
一 同所やはたしらずの藪(やぶ)は、八幡宮の門前、南側の路傍にあり、藪の間口漸(やうや)く拾間ばかり、奥行も又拾間に過まじと思はる、中凹(なかくぼ)の竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・梅・栢(かや)・栗の樹などさまざまの雑樹(ざふき)生じ、南の方日表なれば、路傍より能(よく)見えすくなり、
元来此藪四方は垣根等の構えなければ、麦・米・粟(あは)・稗(ひえ)などのよろずの搗屑(つきくづ)或は塵芥(じんかい)の捨処とし、藪際より中の様子を見るに、甚汚穢(ムサク)して怪異あるべき凄凉(ものすご)き、更に藪には見えねど、古来より種々の奇怪の巷談区(まちまち)ありて、水戸光圀卿は試し見んと、推(おし)て此叢林に入、顔色土の如くにして出給ひ、いか様(さま)排(ヲシ)事のせまじきものよと宣(のたま)ひしのみにて、子細をば更に仰(おほせ)なかりし、などゝ巷談し、或は強気の者世上の風聞をなじりて、此藪に入、久しくして立出、ふるへふるへ藪中の怪異を語り終て、即時に血を吐(はき)死せしといひ、又は、誤りて此藪林に入し者は、更に出口を失ひ、路に迷ふて酔たるが如く、漸(やうや)く人に引出されて後、煩ひて死せしといひ、又は、里見安房守は六具に身を堅め、馬にまたがりたるを見たるなど、むかしより伝ふる処、説々同じからず、されば、此藪四角にして、凡百坪余には過まじ、殊に雑樹扶疎(マバラ)に生じて繁茂せざれば、藪中暗からずして外より一々能(ヨク)見ゆ、
土人に尋るに、怪異の説大同小異也、是信じがたし、爰に小岩田御番所主忠右衛門申けるは、
此やわた宿の南半みち余に、行徳(ぎやうとく)領に兵庫新田といふ村あり、彼藪その新田一村の持にして、誰人の所持の藪と限るにあらず、故に、やはた宿内の藪ながら他村持の地面なれば、宿内の者は一切搆はず、依て此藪通り掃除(さうぢ)等も、撿見(み)、又は佐倉の城主通行の節は、兵庫新田の百性(姓)来りて取片付(とりかたづけ)侍れば、坪数もしらず、藪の中には何のあるやら元より用なき他村の藪なれば、宿内の者這入(はひる)べき様はなし、故に、やはたのやはたしらずの藪と申ならはし侍る、
と物語りき、此説こそ実事と思はる、
予五七年以前、里夕・巴水の両人を同道し、本所さかさい川より両国まで同船せし砌、忠右衛門をも便船さしめ、彼より直咄(ぢかばな)しに聞て、日頃の疑念はれたり、総て物事は念入(いれ)て能(よく)聞糺(ききただ)すべき事にこそ、聖人の下聞に恥(はぢ)ずと宣(のたま)ひしは宜(むべ)也、
実(げ)にも、彼竹藪の中弐三間をへだてゝ、小さき石の小祠(ホコラ)あり、鳥居には注連(シメ)を引はえたり、若(もし)怪異ありて、壱寸も踏込がたくは、何ぞかくの如きのかざりあらんや、又里見房州等が戦死の凝念、此藪林にとゞまらば、一切の搗屑・塵芥の類を捨る者に、咎(とが)めもなく崇らざるは、浮説虚談をいひ伝へたる事と覚ゆ、能その本源をわきまへずして、万事人には伝へがたし、君子の博(ヒロ)く学んで内におしゆるとは金言なるべし、
件の忠右衛門は素丸の門人にして、誹諧(はいかい)をたしなみ、名を巴川といひける、
後人遊歴し彼藪林を見てしるべし。
『遊歴雑記初編1』(朝倉治彦/編訂)平凡社 東洋文庫 1989 p92~94
金ヶ作紀行
一、八幡村に應神祠あり。神領、聞を失す。社樹に五抱の銀杏一株あり。鎌倉府応神祠石階の側にある處のものと伯仲す。
一、應神祠の前に茶肆あり。屋後に八幡森と呼べるあり。故舊相傳ふ、「此の森へ一回入る者は長く不レ還」と。怪しき事なり。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」p22
神野山日記
此の社近き程に八幡不知(やはたしらず)と呼ぶ藪あり。一四五間が程、粗垣(あらがき)ゆひ渡して、人立入るまじき由の札立てり。こは、「此の内に入るもの、出づることなし」と、いひ傳へたればなりけり。又の設に、「こは、むかし八幡宮鎮座の所なれば、此の内に入る者は必ず崇りを蒙る故に、垣をゆひ廻して入る事を許さず」といへり。いづれか善き、いづれか悪しき。更に辨(わきま)ふべくもあらず。又、元禄の頃、水戸の贈大納言光國卿の君、ひとり入り試み給ひけるが、其の故をば語らせ給はで、「又な入りそ」と、宣ひし由いへり。されど、此の説は、彼の御館の人などは更に諾(うべな)はぬ説なり。げに、さばかりの御身にて、いかに官(つかさ)を返され給へるからに、かろがろしくかゝる御振舞ひやは有るべき。證(あかし)を待つまでもなく空事(そらごと)とは知るべきなり。
『房総叢書』紀元二千六百年記念 第8巻「紀行及日記」p447~448
嘉陵紀行
爰を出て、元來し路を市川の方へ行ば、途の南側に八わたしらずといふ木立あり、四面垣ゆひまはして、人の立入ぬ樣にす、うちに少し凹の處あり、人々必死すと云、瘴氣時として發する故成べし、上總の内にもこゝに同じ樣なる處あり、酢をあつく煮立てそれをわらにてまきちらしながら行ば、子細なしといふ、そのむかひ道の北側に、八幡宮たたせ賜ふ、…
『嘉陵紀行 第二篇』(村岡正靖/著)江戸叢書刊行会 1916 103p
千葉県 東葛飾郡誌
八幡不知の藪
八幡町八幡神社の大華表より數歩、國道に沿うて廣さ方二十餘歩に木柵を囘らせる竹林あり、是れ古來著名なる八幡不知の藪なり、今柵内五百十一歩碑を建て保存に努む、而して古より人の之に入る者あれば必ず崇りありと稱し里人をして恐れしめし諸説を擧げんに、
一、往古八幡神社を勸請したる舊地なりと傳ふ林中今尚ほ石造の小祠を存せり。(稲荷を祠る)
二、行徳の入會地なるが故に八幡町民の妄に入るを許さゞりしを以て八幡不知と名づけたり。
三、貴人の古墳なりしを以て里人をして恐れしめ以て之れを穢すを避けたり。
四、往昔毒瓦斯を發生する孔穴ありて、人附近に立寄れば必ず死せり、又底無の小池ありて人落つれば又出づる能はざりし。
五、天慶年中平貞盛此に八門の陣を敷く、其将門を平げ上洛するに臨み土人に告げて曰く、此は八門遁甲の陣にして死門の一角を遺す、後世人跡を容るゝ勿れ、犯さば必ず崇ありと衆怖れて入らずと。
六、萬治年間水戸黄門光圀、土人の言を聞きて奇異の思をなし、入りて神誠を蒙り、土人に告ぐる樣、是れ凡人の足を容るべき地に非ず汝等決して禁を犯す勿れと愈々里人を恐れしめしと。
七、日本武尊の御陣所跡なれば恐れて入る事を禁ぜしものならんと。
諸説紛々其是非を斷ずべきに非ず、斯くして千古の不可思議を秘めて幾世に傳はらん。
又里傳に昔平将門の餘類の靈土偶人となりて此森中より現はれたることありしなど云へり、思ふに古墳の埴輪土偶なりしならん。
日くらしや八幡不知も家つゞき 桃林
茨の香や八幡不知のふくらがり 蕉雨
○八幡所見 小菅貫
不知何處不知叢 野雉一聲林表風
晨霞疎々看忽散 獵人提銃出葱籠
『千葉県東葛飾郡誌』(千葉県東葛飾郡教育会/編) 千秋社 1988復刻 p1231-1232
- NDC
-
- 関東地方 (213 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 備考
- 登録番号
- 2000023570