レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2026年07月09日
- 登録日時
- 2026/07/09 09:31
- 更新日時
- 2026/07/09 09:53
- 管理番号
- 2026-007
- 質問
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解決
北條民雄の作品「間木老人」および「眼帯記」に「十号」という記述がある。この記述について下記の点を知りたい。
1、十号病室があった場所
2、十号病室の沿革、あるいはそれを知り得る資料
- 回答
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十号病室の位置について
・多磨全生園入所者自治会『倶会一処』(一光社、1979年)
年表
→「一九三一年(昭和6年) ※この年落成した建物 患者住宅(三棟)重病室(一棟)精神病室(一棟)教官舎(一棟)
・『統計年報 昭和五年』(第一区府県立全生病院、1931年)
→ 巻頭地図に「精神病室」の文字(昭和4年年報までは空地)。現在でいうと「恩賜公園(楓公園)」の南側あたり。
十号病室の沿革について
十号病室について、まとまった説明が為された資料は発見できなかった。
以下、参考資料。
・『多磨 1961年10月号』(多磨出版部、1961年)
志賀一親「精神病院と全生園の精神病棟」
→「全生園の精神病棟は (中略) 昭和三十四年八月に起工して (中略) この完成は種々の事情から昭和三十八年度になる様に聞き及んでいる」
・広野照海『看護のこころ』(短歌新聞社、1988年)
あとがき
→「昭和三十五年八月、ここに精神病棟(のちに第五病棟と改称)が開棟されました。(中略)昭和五十九年三月、この病棟も使命の大半をおえて閉鎖され、そこには今新しい病棟が建っています」
・『統計年報 昭和三十四年』(国立療養所多磨全生園、1961年)
→ 巻頭地図によれば、かつての地図で「精神病室」と書かれていた建物は「第十號病棟」と改称されており、それとは別に、現在の全生園会堂の南あたりに「精神病棟」という建物がある。昭和35年の年報以降には地図がない。
・『創立60周年記念誌』(国立療養所多磨全生園、1969年)
林芳信「50周年後の歩み」
→「昭和35年中 1)現代的精神病棟の建築 らい療養所における精神病併発患者の取り扱いについては各所とも非常に困難し、わづかに病室の一部をこの種患者に当て、不完全なる治療看護の止むを得ざる状態であったが、本省においてはらい患者に精神病の併発せる如きは不幸中の不幸これに過ぐるはない。現代に相応わしき治療形態を整えるべきであると (中略) 全生に40床、長島と菊池に30床づつの病棟を建設することになり、全生園には第1着として34年度において25床分の病棟を8月起工し、35年4月その落成をみた」
・『創立五十周年記念誌』(国立療養所多磨全生園、1959年)
→ 巻末附録の地図には「第十號病棟」(恩賜公園の南あたり)の記載がある
・『創立60周年記念誌』(国立療養所多磨全生園、1969年)
→ 巻末附録の地図には「第十號病棟」の記載がなく、新たに「精神病棟」(全生園会堂の南あたり)の記載がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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北條民雄『北條民雄全集 上巻』(創元社、1938年)
『間木老人』
→「十号はこの病院の特殊病棟で、白痴と、瘋癲病者の病棟である」
光岡良二『北條民雄 いのちの火影』(沖積社、1981年)
→「精神病棟は、友人の東條耿一がそこの付添夫をしていたので、北條は耿一のところを訪ねる都度、そこに住む狂人達の生活を作家らしい観察眼で注意深く見、心に刻んでいたのであろう」
上記より「十号(病室)」は精神病患者のための病室であることを確認。
- NDC
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- 小説.物語 (913)
- 参考資料
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多磨全生園患者自治会著. 倶会一処 (くえいっしょ) : 患者が綴る全生園の七十年. 一光社, 1979.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1970586434798712088 -
広野照海 著. 看護のこころ. 短歌新聞社, 1988.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I46111111519986
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多磨全生園患者自治会著. 倶会一処 (くえいっしょ) : 患者が綴る全生園の七十年. 一光社, 1979.
- キーワード
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- 北條民雄
- 十号病室
- 多磨全生園
- ハンセン病
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000386813