レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年1月18日
- 登録日時
- 2018/01/19 16:55
- 更新日時
- 2025/07/04 21:53
- 管理番号
- 県立長野-17-134
- 質問
-
未解決
戦国時代の川中島四郡を支配していた村上氏の家臣に斎藤姓の武士(城主あるいは城番)はいたか。村上氏とともに上杉謙信・景勝の家臣となり、越後に移ったと思われる。
- 回答
-
当館所蔵の主な関係資料には、斎藤姓の武士は確認できなかった。
『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県』 長野県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編 角川書店 1996【N288/158】p.782-784にかけて、長野県内の斎藤氏について次の記述がある。
(前略)藤原利仁の子叙用が斎宮頭に任じられ、斎藤氏を称したといい、越前(福井県)、加賀・能登(以上石川県)などの北陸地方を中心に全国に広がった。この利仁流とは別に藤原秀郷流・藤原北家流・清和源氏土岐氏流などがある(姓氏家系)。県内にも広く分布し、都市部では長野市・松本市・上田市に多く、郡部では※1小県(ちいさがた)郡丸子町、※2南安曇郡梓川村、下水内(しもみのち)郡栄村に多い。
※1現・上田市 ※2現・松本市として、12の家系を紹介している。そのうち、川中島四郡(水内・高井・埴科・更級)にあたる地域では、
1 飯山市照岡
江戸期西大滝村(飯山市)の名主役を務め、代々酒造業を営んだ。(後略)
2 下水内郡栄村長瀬
江戸初期から幕末まで志久見山の巣鷹を管理する巣守であった。慶長一八年、北信濃四郡を支配した松平忠輝は、地元の百姓一〇人を志久見山の巣守とした。そのまとめ役に斉藤甚右衛門が就き、当初は扶持米一〇〇俵が給され、諸役も免除された。(後略)
3 下高井郡山ノ内町横倉
伝承では、平兵衛家が本家とされていたが、最近の調査では甚五右衛門家が本筋かともいわれる。甚五右衛門家は江戸中期ごろ、かつて当地方の豪族であった高梨氏一族の尾張藩士の高梨家と文通しており、旧高梨家臣であったことを物語っている。(中略) 家紋は丸に隅立て四つ目。
の3氏。ただし、村上氏との関係に触れた個所はなく、かつて村上氏の家臣で信濃に残った家系かは不明。
村上義清が上杉謙信のもとへ救援を求めた天文22年前後から、上杉景勝が米沢へ移封される慶長3年までの間を『信濃史料』訂正重刊版 全28巻 補巻上・下 索引 信濃史料刊行会編・刊 1968-1972 【N208/28a】で「斎藤」姓の人物を調査した(もともとの上杉家の家臣・斎藤朝信については除外)。
第12巻 永禄6年12月12日 「斎藤越前入道」(p.469-470)
[加藤平次左衛門遺著]中の武田信玄がこの戦に参加した諸士に宛てた書状中にあり。
第15巻 天正10年6月25日 北条氏政の臣「斎藤定盛」(p.262)
[千野文書]中の斎藤摂津守定盛が千野兵衛尉に宛てた書状中にあり。
第15巻 天正11年2月 9日 「斎藤与三右衛門尉」(p.563)
[斎藤文書]中の知久頼氏が斎藤与三右衛門尉に宛てた書状。『戦国人名事典』 阿部猛ほか編 新人物往来社 1987【281.03/アタ】
斎藤越前入道は、斎藤憲広(さいとうのりひろ): 生没年不詳(越前太郎入道・一岩斎)上野国岩櫃城城主。憲次の男。永禄初年、近隣の土豪を従え吾妻一郡を制圧する勢いであった。(後略)
とあり、上杉方についた上野の国衆と思われる。
斎藤定盛も北条氏の家臣。ただし、[千野文書]とは異なり、斎藤定盛(さいとうさだもり): 生没年不詳(摂津守)北条氏邦の家臣。武蔵鉢形状の支城金窪譲(児玉郡上里町)の城主。(後略)
とある。
斎藤与三右衛門尉については、他の事典にも記載はなく詳細は不明だが、内容が長野県の南部にあたる伊那地域のことで、依頼の斎藤氏とは異なると思われる。村上氏の本拠地であった埴科郡坂城町の『坂城町誌 中巻歴史(1)』 坂城町誌刊行会 1981【N216/37/2】で、室町時代、戦国時代、織田・豊臣時代までを見ていくが、斎藤氏についての記述は確認できなかった。なお、この資料のp326-327にかけて、上杉景勝の会津国替えについての記述中に、
当時景勝の領地であった北信の氏人に対しても景勝に従って奥羽に移るよう命じた。
とあり、
知行人である侍は一人も残ることができなかった
ともある。
『長野市誌 第2巻歴史編 原始・古代・中世』 長野市誌編さん会編 長野市 2000【N212/318/2】には、p.757-924にかけて、武田氏支配以前の北信濃の郷村の国人・地侍の名前が多く出てくるが、斎藤氏は確認できなかった。また、p.925-965に上杉氏が川中島四郡支配の時期の記述があるが、ここに記述がある斎藤氏は、上杉のもとからの家臣である「斎藤朝信」のみ。p.953-958に「文禄三年定納員数目録」から作成した信州出身者の表(表3-9)があるが、斎藤氏は確認できなかった。
なお、「定納員数目録」は『新編信濃史料叢書第12巻』 信濃史料刊行会編・刊 1975【N208/43/12】に所収されており、確認したところ、以下の通り斎藤姓の人物の記載があった。
越後侍中定納一紙
二百二人 都合 三千三百六十七石 斎藤三郎右衛門 分(慶長二年御勘気)
与板 同在番衆
壱人五分五リン 弐拾四石二斗五升 斎藤市兵衛 (後掃部ト改、)
村松 大崎九郎左衛門支配新手明衆
六石五斗 斎藤与惣左衛門
蒲原郡 木場在番蓼沼日向守山吉玄蕃亮同心
八石九斗 斎藤作大夫
赤見外記同心 八崎之城番
拾八石九斗 斎藤隠岐右衛門
越後 下条采女同心
十八石九斗 斎藤与惣
八石 斎藤佐右衛門
庄内 本庄越前守同心
一人弐拾石一斗八升 斎藤権之丞
この「定納員数目録」は『新潟県史 別編3』 新潟県編・刊にも所収されている。これら斎藤氏が配置された領内の地名は、新潟県、および群馬県のものと思われる。『北信濃の城』 浅野井担ほか編 郷土出版社 1996【N521/129】の「北信濃の城館跡一覧」p.201-207 および本文を調査したが、斎藤氏は確認できなかった。
『信濃古武士』 丸山楽雲 信濃古武士刊行会 2009 【N288/236】の「直江山城守兼続の知行地を与えられた川中島四郡の武士」p.184に、屋代衆と呼ばれる武士を列挙しているが、斎藤氏は確認できない。また、「寛永八年分限帳」(p.223-229)を活字翻刻して掲載しいるが、信濃出身の斎藤氏は記載がない。「九拾弐石 庭坂衆 斎藤兵作」は、著者丸山楽雲の調査によると信濃出身になっていない。
さらに、p.222-229「『寛永八年分限帳』にみる上杉家臣団と信濃武士」に会津転封後の「会津分限帳」は藩士の出身を知る資料であるとあった。当館では所蔵していないが、「会津分限帳」の初期の部分に越後時代の分限帳も含まれていれば、斎藤氏の詳細がわかる可能性が考えられる。『信濃中世史考』 小林計一郎著 吉川弘文館 1982 【N209.4/56】所収の同氏の論文「村上氏について」「村上義清の子孫」「栗田氏について」には、斎藤氏についての記述は確認できない。
『中世信濃武士意外伝』 長野県立歴史館編 郷土出版社 2005 【N209.4/101】の「第4章 戦国盛衰」 p.210-281に、戦国期の信濃の武士の動きを記述しているが、斎藤氏は確認できない。この資料でも、上杉の家臣で信濃から移住した者(中・上級家臣のみ)を『上杉家御年譜』から拾い出したものの一覧(p.254-255)を挙げているが、斎藤氏は確認できない。
『武田・上杉・信濃武士』 長野県立歴史館編・刊 2007 【N209.4/116】のp.48に「天正10年6月以降に上杉景勝の発給した安堵状(信濃関係)」の一覧表があり、天正10年6月から天正12年6月27日までのものがまとめられているが、この中に斎藤氏は確認できなかった。
『武田・上杉軍記』 小林計一郎著 新人物往来社 1983【N209.4/58】では、天正五年十二月二十三日に上杉謙信が記した配下の武将80名ほどの台帳からとして、名前が列挙されている。「斎藤次郎右衛門尉」が見られるが、詳細は不明。この台帳は『越佐史料』にも所収されている。
小林計一郎 「信濃武士の系譜」 『長野』125号 1986 p.43-173中の「割拠する信濃武士団」「信濃大名衆」「信濃武士一覧」「郡別中世後期信濃武士一覧表(天正8年以前)」にも、斎藤氏は確認できなかった。また、「郡別中世後期信濃武士一覧表(天正8年以前)」p.49-50は、武田氏支配の末期ごろ(天正8年)までの信濃武士を『信濃史料』の中から抜き出し、郡別にまとめたものとあり、この一覧中でも斎藤氏は確認できない。
『信濃史料叢書 下巻』 信濃史料編纂会 歴史図書社 1969 【N208/60/3】所収の「村上家伝」p.511-523にも、斎藤氏の記述は確認できない。
『越後村上氏二代』 志村平治著 歴研 2012 【289.1/ムヨ】は村上義明とその子忠勝についてまとめたものだが、上杉家が会津に移封後、村上義明は小松藩から村上に入封している。
上杉家とともに信濃の武士団は会津へ移ったこと、村上義明が信濃から逃れて丹羽長秀のもとへ身を寄せ、後に小松藩を経て村上に入封したことを考えると、斎藤氏が仕えた村上氏は、義清ではなく義明の可能性もでてくる。石川県もしくは愛知県で斎藤氏探す方法もあるかと思われる。その一方で、『村上百系図』(電子複写版) 第3巻 村上清 村上一族の歴史の会編・刊 1975【N288/116/3】 p619には、
(前略)そこで、上杉景勝を一五九七年(慶長二)、会津へ転封した。そして上杉氏の主城春日山に入ったのは堀秀治(秀勝の子、父死後のあとつぐ)である。堀氏の寄騎、村上義明も越後村上(本庄)に移り、九万八千石となる。家臣の半分は小松から来たが残り半分は旧上杉家臣群(土地の豪族)を採用した。(後略)
とある。しかし、家臣団の名前の記述はない。また、「同書」のp.488-552の「11.戦国時代の信濃村上氏」にも斎藤氏の記述は確認できなかった。
- 回答プロセス
-
1 『長野県歴史人物大事典』で斎藤姓の武士を調べるが、中世の人物は確認できない。
2 『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県』で長野県内の斎藤姓について調べる。
3 川中島四郡が現在のどこにあたるか、『角川日本地名大辞典 20 長野県』 角川日本地名大辞典編纂委員会編 角川書店 1990【N293/18】で確認する。水内・高井・埴科・更級とあり、ほぼ北信一帯とわかる。
4 『信濃史料』の索引巻で「斎藤」姓の人物について調べ、村上義清から上杉景勝が活躍した時代のあたりで絞り込む。『戦国人名事典』で人物を特定する。村上一族と関係がある斎藤姓の人物名と確定できる掲載はない。
5 村上家の家臣と思われる人物が出てこないため、村上氏の本拠地である「坂城町」、北信の広い地域を占める「長野市」、上杉軍が信濃に入ってくるときの要所となる「飯山市」「上高井郡」の誌史を調べる。村上一族と関係がある斎藤姓は確認できない。
6 利用者が村上氏の家臣で郡内の城主あるいは城番だった可能性がある、とのことから、『北信濃の城』『信濃古武士』を見る。 村上一族と関係がある斎藤姓は確認できない。
7 斎藤氏単独よりも、村上氏に寄った資料から探すこととする。『信濃中世史考』『中世信濃武士意外伝』『武田・上杉・信濃武士』『武田・上杉軍記』で確認していく。村上一族と関係がある斎藤姓は確認できない。
8 郷土史雑誌について雑誌記事を検索する。小林計一郎 「信濃武士の系譜」 『長野』125号などがヒットするが、村上一族と関係がある斎藤姓は確認できない。
9 『信濃史料叢書 下巻』所収の「村上家伝」『越後村上氏二代』『村上百系図』をみるが、斎藤姓は確認できない。
10 残っている史料の少ない時代であり、調査範囲が広いため、ここで調査打ち切りとした。
<調査資料>
・『長野県史 通史編 第3巻中世2』長野県編 長野県史刊行会 1987 【N209/11-4/3】
・『長野県上高井誌 歴史編』上高井誌編纂会編 上高井教育会 1962 【N214/18/2】
・『飯山市誌 歴史編』飯山市誌編纂専門委員会編 飯山市誌編纂委員会 1993 【N214/18/2】
・『飯山町誌』飯山市公民館編・刊 1955 【N211/10】
・『地方別日本の名族 中部編』オメガ社 新人物往来社 1989 【288.3/クモ】
・『山内上杉氏』黒田基樹 戎光祥出版 2014 【288.3/クモ】
・「信濃の統治」「信濃国司一覧」「信濃知行国主一覧」『長野』113号 1984
・『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989 【N283/13】
・小出章「国見斎藤氏の系譜」『長野』125号 1986 p.31-32
・小出章「再び『国見斎藤氏の系譜』について」『長野』133号 1987 p.62-65
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 日本史 (210 8版)
- 中部地方 (215 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 斎藤氏
- 村上義清
- 村上氏
- 上杉景勝
- 川中島四郡
- 先祖
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000228788