満州事変に関する現地調査委員会である「リットン調査団」が作成した、いわゆる「リットン報告書」は外務省記録「満州事変(支那兵ノ満鉄柳条溝爆破ニ因ル日、支軍衝突関係) 善後措置関係 国際連盟支那調査員関係 報告書関係(日、支両国意見書ヲ含ム)」に収められています。また、報告書の全文が『日本外交文書 満州事変(別巻)』に採録されています。
1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件勃発以降、錦州爆撃、北部満州のチチハル占領など、関東軍による軍事行動拡大が続くなか、中国からの正式提訴を受けた国際連盟は、「両国間ノ紛争ノ現存原因ノ終局的解決ヲ容易ナラシムル」ため、5名からなる調査委員会を派遣することを決定しました。英国のリットン伯爵のほか、米国、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国から選出された調査委員は、翌1932年(昭和7年)2月から日本と中国を訪問して調査を行いました。
こうした視察調査をへて、リットンらは同年9月4日に調査結果の報告書をまとめ、10月1日には日中両国などに通達しました。報告書はまず、満州をめぐる日中間の諸問題など歴史的背景と事変勃発前後の経緯について、日本軍の行動は、「合法ナル自衛ノ措置ト認ムルコトヲ得ズ」とし、また「満洲国」は日本軍の存在と日本の文武官憲の活動がなければ成立しなかったと論じています。そのうえで報告書は、日中間の紛争解決のためには、1931年9月(柳条湖事件)前の状態への復帰は問題とならず、現制度より進展させるべきと指摘し、事態解決の原則及び条件として、日中双方の利益と両立することや満州における日本の利益の承認、日中間の新たな条約関係の設定など10項目を明示しています。そして、報告書は上記の条件に合致する一つの方法として、日中両国を連盟理事会に招請して、東三省(満州)に特別な行政組織を設置することを審議・勧告するための諮問会議の開催などを提議しました。
しかし、日本側は事前に報告書の全貌をつかみながら、報告書公表前の1932年9月15日に「満洲国」を承認しました。その後、日本は連盟内で孤立を深め、1933年(昭和8年)3月27日には国際連盟に脱退を通告することになりました。