1910年(明治43年)外務省に入省した斎藤博(1886~1939)は、ワシントン、パリ、ニューヨーク、オランダ在勤などを経て、日本が国際連盟脱退を通告した直後の1933年(昭和8年)に、49歳の若さで駐米大使に任ぜられました。着任した斎藤は、アメリカの外務当局や財界と折衝を繰り返したほか、日本の外交政策や日米関係の歴史を解説した著書(""Japan's Policies and Purposes"")の執筆や、アメリカ各地での外交、経済問題に関する講演活動などを通じて、急速に悪化するアメリカ国内の対日感情緩和に努めました。また、1937年(昭和12年)12月に日本海軍が揚子江に停泊中の米艦パネー号を沈没させる事件が起こると、その直後に3分52秒にわたる全米中継放送を、本国からの訓令を待たずに行ない、事態の沈静化に努めました。しかし、斎藤はこうした激務から体調を崩し、1939年(昭和14年)2月にワシントンで亡くなりました。彼の死後、ハル(Cordell Hull)米国務長官が「(斎藤大使は)理解ト同情ヲ以テ日米友好関係ノ為ニ尽力シタ」とのステートメントを新聞に寄せるなど、その死を惜しむ声がアメリカ国内で広まりました。アメリカ政府はさらに、最新鋭の巡洋艦「アストリア号」で斎藤の遺骨を護送するという異例の措置をとって、彼の死に特別の弔意を示しました。
アメリカがアストリア号で遺骨を護送した経緯のほか、彼の葬儀が外務省葬として実施されたことに関する記録は、外務省記録「本邦人弔喪関係雑件 斎藤大使葬儀関係」に関連記録がおさめられています。