レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20240828
- 登録日時
- 2024/08/12 12:25
- 更新日時
- 2025/01/10 10:38
- 管理番号
- 岐市図-053
- 質問
-
解決
旧付知村にいた「牧野丈右衛門(まきのじょうえもん)」について知りたい。
・略歴
・成し遂げたこと
・特徴的なエピソード
- 回答
-
当館所蔵資料で、牧野丈右衛門についての記述抜粋とその資料を紹介します。
1.「丈右衛門新道と王滝新道(2の2)~明治初期の有料道路~」 安江 赳夫/著
(『岐阜史学 第52号』 岐阜史学会,1967 p.1-5に収録。2の1収録の51号は当館未所蔵。県図書館所蔵あり。)
<以下抜粋記事>
牧野丈右衛門は、付知村屈指の大地主で、頭百姓であったが、すでに維新当時家督を長男丈之助に譲って隠居の身分だったので、新道工事に必要な多額の費用も、かれ自身の責任に於て調達しなければならなかった。
そこでかれは、たびたび出県して工事に対する官費の下渡しや、新道利用についての請願・陳情を繰り返したが、いずれも不許可となったので、さらに内務省へ直願をこころみた。しかし、それも空しく却下の憂目を見たことは、県立図書館所蔵の『郷土資料』の中に、建白書・却下通達書など数通をとどめていることによって知ることができる。―省略― 巨額の借金を背負い、万策尽きた丈右衛門は、明治十六年行方も告げず家を出て上京した。そして、翌十七年九月四日、東京からの帰途、東海道丸子宿と岡部宿の中間にある宇津谷の宿屋で、失意と疲労のため六十年の生涯を閉じた。遺骸はひとまずその地の慶竜寺に葬られたが、その後付知に縁故の深い坂上宗詮が、清水市興津の清見寺住職となるに及んで遺骨を収め、清見寺と郷里付知の墓地とに分葬した。清見寺には、大正元年に建てた碑がある。法名大道宗休居士。
2.「東濃の丈右衛門新道」 三戸 喜津三/著
(『濃飛の文化財 1995・第35号』 岐阜県文化財保護協会,1995 p.75-79に収録)
<以下抜粋記事>
付知より福岡・蛭川等の村々を経て福地に至り黒瀬街道より黒瀬湊に至る片道十里(三九キロ)で、往復三日を二日に短縮しようという、最短距離の有料道路を計画し、今まで十カ月以上かかっていた川狩の材木が、半台(小型車)で二日目には黒瀬湊に到着する。しかも運賃は、長さ二間の尺角一本がたったの二十五銭との安さである。
この点に着目して新道を作る事を企画したのは、牧野丈右衛門で、―省略―彼は元来潔癖な性格で、自己の利害損得はあまり考えてなかったようである。
この新道は、柏原新田や黒川地域の人達は、付知村への近道として新道を往来し、茶店の利用もあったが、大正十二年北恵那鉄道が開通し、電車利用が多くなり、丈右衛門新道からは全く人の姿が消えてしまった。
しかし残念なことは、彼の基本構想である官民材の輸送が、旧然どおり、川狩りが続けられ、試みに民材の輸送を行ったが、付知より平四郎新田台地までの勾配が急で、運材車(半台)の利用が予想どおりにゆかず、又大材を多量に運ぶまでには地盤の硬化を待たねばならなかった。こうした幾つかの欠陥があり、更に彼個人にとって明治十二年、村内一揆とも言われる「稲刈騒動」の首謀者として、翌十三年一月から百日間の牢舎生活と被害者への賠償支払等物心とも大きな痛手を受けた。
しかし彼は、新道改修費及び官費工事として認められるよう費用の捻出及び嘆願にと奔走しつづけ、遂に内務省に直接請願のため、明治十六年上京したのである。
―省略―
丈右衛門の先進的新道開設は、他村ではともかく、地元ではあまり評価されなかったようである。新道開設の工事実施に当たっては、戸長役場に呼びかけて耳を傾けられなかったか、或は彼が協力を求めなかったかいずれにしても、彼の親戚筋の二、三人が加わっているだけで、村の有力者は関係していない。
これは後日の名称どおり牧野丈右衛門単独の仕事であり、しかも彼の最後の事業であった。
3.『付知町史』 付知町教育委員会/編 岐阜県恵那郡付知町,1974年発行
※p.802 後方から1行目 丈右衛門の孫にあたる「牧野彦太郎」についての記述中に次のように書かれている。
“慶応二年(1866)六月四日、父丈之助・母みちの長男として生れ、丈右衛門新道を開設した牧野丈右衛門の孫にあたる。慶応大学卒業後、主として東京に在住していたが、郷土の将来について絶えず深い関心をを持っていた。明治四五年(1912)五月代議士に当選し、大正三年までつとめているが、政治家としては大成しなかったようである。彼は祖父である丈右衛門の血をひいてか、損得を度外視した義侠肌のところがあり、敵も多かったと云われる。・・・・”
以上
- 回答プロセス
-
キーワード検索 “牧野丈右衛門” “丈右衛門新道” “丈右衛門”、関連する地「付知町」「八百津町」「中津川」の資料をあたった。
以下は調査済み資料
『付知町史 続』 付知町教育委員会/編、岐阜県恵那郡付知町,2005
『八百津町史 通史編』 八百津町史編纂委員会/編、岐阜縣加茂郡八百津町,1976
『恵那山をめぐる歴史と伝説』 東山 道彦/著、岐阜郷土出版社,1988
『奥美濃』 山葵会/編、山葵会,1975
『土岐川風土記』 渡辺 則雄/著、中部ファミリー,1988
『岐阜人物地図 1~5』 中日新聞本社/編、大衆書房,1974
- 事前調査事項
-
岐阜県加茂郡八百津町には、標高905メートルの「見行山けんぎょうさん」と呼ばれる山がある。その山を歩いた際に「丈右衛門新道」と名が付く道を歩いた。調べると明治時代に旧付知村の豪商「牧野丈右衛門」という人が私財を投じて切り開いた山道だとわかった。山に囲まれた旧付知村から、川運が発達していた八百津町へ物資を届けたり、八百津町を経由して名古屋方面の人や物を付知村に運んだりするために開いたということがわかった。
- NDC
-
- 中部地方 (215 9版)
- 参考資料
-
- 岐阜史学 第52号 (「丈右衛門新道と王滝新道(2-2)~明治初期の有料道路~ 安江赳夫/著)
- 濃飛の文化財 1995・第35号 (「東濃の丈右衛門新道」三戸 喜津三/著)
-
付知町編. 付知町史. 付知町, 1974.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130282269704761728 (p.802 孫にあたる牧野彦太郎についての記述)
- キーワード
-
- 牧野丈右衛門
- 丈右衛門新道
- 丈右衛門
- 旧付知村
- 八百津町
- 岐阜県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000354382