レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年02月08日
- 登録日時
- 2021/04/18 10:43
- 更新日時
- 2025/03/18 10:15
- 管理番号
- 広瀬2017-25
- 質問
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解決
タンザニアが英国の植民地と記載があったが、ドイツ領の間違いではないか。
- 回答
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タンザニアは統合前、「タンガニーカ」と「ザンジバル」に分かれており、タンガニーカは1891年にドイツの植民地支配を受け、その後、1920年にイギリスの植民地になった。一方、ザンジバルは1890年からイギリスの植民地であった。その後、イギリスから1961年に独立したタンガニーカと1963年に独立したザンジバルが1964年に統合した為、そのように記載されていたと考えられる。
- 回答プロセス
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1.「タンザニア 歴史」をインターネット検索。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によると、「1890年ザンジバルはイギリスの保護領、1891年タンガニーカはドイツ領東アフリカの一部」と記載あり。また、「1964年4月、当時のザンジバル人民共和国とタンガニーカ共和国が合邦してタンガニーカ=ザンジバル連合共和国を形成、同 1964年10月、現国名に改称した」と記載されている。
また、『日本大百科全書』には、「1891年には東アフリカ会社の領土をドイツ政府の保護領に切り替えた。一方イギリスは、1890年ザンジバルを保護領とし、1891年にはマシューズを初代首相とする立憲政府を発足させた。」と記載されている。
2.『タンザニアを知るための60章 第2版』によると、「ヨーロッパ列強による植民地化は、1884~85年のビスマルク主宰のベルリン会議でなされ、アフリカ大陸が地図上で勝手に分割されることになった。現在のタンザニア本土とルワンダ、ブルンディはドイツの縄張りとされた。ザンジバルのブーサイド朝のスルタンは存続したが、英国の保護下におかれることになった」(p59)とあり、さらに「タンザニアは第1次大戦で英独の戦場とされ、多くのアフリカ人がタンザニアでもケニアでも人夫として徴収された。戦後、ドイツ領東アフリカは国際連盟委任統治領タンガニーカとなり、英国の統治下に入った」(p61)と記載されている。
3.『世界大百科事典 17』には、「84年にドイツ植民会社がこの地域に進出し、86年のイギリス、ドイツ間の境界線協定で内陸部はドイツの勢力範囲と定められ、90年ドイツ帝国植民地となった。一方、ザンジバルは同年イギリス保護領となった。」(p475)とあり、「第1次大戦中にドイツ領東アフリカは戦場となり、ドイツ敗戦後は分割されて、ルアンダ(現、ルワンダ共和国)とウルンディ(現、ブルンジ共和国)地方がベルギーの、残りの全土がイギリスの、それぞれ国際連盟の委任統治領となることが決まった。イギリスの統治は20年7月に正式に発効し、この統治領はタンガニーカと呼ばれることになった。」(p475)と記載されている。
4.『大辞林 第三版』には、「イギリスから1961年独立した大陸部のタンガニーカと、63年に独立したザンジバル島が64年統合し、原国名に改称。」(p1588)と記載されている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 政治.経済.社会.文化事情 (302 9版)
- 日本語 (031 9版)
- 辞典 (813 9版)
- 参考資料
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- 『タンザニアを知るための60章 第2版』 粟田 和明/編著 根本 利通/編著 赤石書店 2015年
- 『世界大百科事典 17』 下中 美都/編 平凡社 2007年
- 『大辞林 第三版』 松村 明 三省堂編修所/編 三省堂 2006年
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コトバンク『タンザニア』 (2021年4月6日最終アクセス)
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2-95036
- キーワード
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- タンザニア
- タンガニーカ
- ザンジバル
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000297330