レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2025年06月26日
- 登録日時
- 2025/12/03 13:58
- 更新日時
- 2025/12/26 14:54
- 管理番号
- 中央-1-0021875
- 質問
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解決
日光御成道(大門を通っている方)を通った徳川将軍のうち、一番はじめに通った将軍は誰で、それは何年か知りたい。
- 回答
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第1回から第16回までの将軍社参については、その経路を詳しく記した史料がないため、いつから大門を経由するルートで日光御成道を通るようになったのかは不明。
はっきりと記録上で確かめられるのは、享保13年(1728年)の、8代将軍徳川吉宗による第17回社参からのようである。
参考資料に挙げた資料を紹介した。
- 回答プロセス
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●辞典類を確認
△『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1980年
p662 日光御成道 元和3年4月、徳川家康の遺骸が駿河の久能山から日光に移された時、2代将軍秀忠が同年4月12日江戸を出発して日光に向かった時が御成道の最初の通行。ただしこのときは、千住から越ケ谷までは奥州道中を通り、越ケ谷から岩槻城に入って、岩槻城で2泊した後、御成道を幸手に出た。
→大門を経由せず。
△『日本の道路がわかる事典』 浅井建爾/著 日本実業出版社 2015年
p126 2代将軍秀忠の最初の社参は日光街道を通ったが、3代将軍家光のときに、将軍一行が通る特別な道として日光御成道が整備されたのである。それまでは、日光御成道も細々とした日光街道の脇街道でしかなかった。
→大門を経由したか不明。
●日光御成道や大門宿に関する地域資料を確認
●国立国会図書館デジタルコレクションを確認
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 10版)
- 交通史.事情 (682 10版)
- 参考資料
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会田熊雄 [ほか]執筆 , 浦和市郷土文化会 編. 日光御成道大門宿. 浦和市郷土文化会, 1995. (浦和歴史文化叢書 ; 11)
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002468876 , ISBN 4-87891-335-5 (p8「社参の順路は、記録によれば、第一回秀忠は日光道を、第三回目の秀忠は川口を通ったとあるので御成道を、第9回家光は越谷から岩槻城へ入っているので日光道と推測される。-略- 御成道のうち、大門宿か下街道(鉤上道)を通ったかの区分は確たる資料が乏しいので決定づける事はむずかしい。しかし第十七回以降はおおむね大門宿を通過しての御成街道であったと思われる。」) -
日光御成道美園大門宿まつり実行委員会 〔編〕. 日光御成道と大門宿 : 企画展. 日光御成道美園大門宿まつり実行委員会, 2016.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I11121198181841 (裏表紙に「大門宿年表」あり。享保十三年(1728)に、「徳川吉宗日光社参 大門通過」とある。また同表には、元和五年(1619)10月に、「秀忠は、大門宿を通行 初めての御成道経由」とある。) -
浦和市総務部市史編さん室 編. 浦和市史 通史編 2. 浦和市, 1988.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001969624 (p294「最初の社参では、江戸を発ち、千住・草加・越ヶ谷を経て岩槻城で宿泊、日光へ向かう経路をとり、この時には日光御成道を社参経路としていなかった。その後、初期の社参経路に関する記録がないため、いつから日光御成道が利用されるようになったか不明である。記録上ではっきりするのは、寛永17年(1640)4月に行われた家光社参の時で、このときには平柳村(現川口市)の錫杖寺で昼食をとり、岩槻城に宿泊していることから(『徳川実紀』)、日光御成道の通行を確認できる。-略- しかし、鳩ヶ谷から岩槻へ至る経路は、かならずしも大門宿を経由するとは限らなかったとみられる(杉山正司「日光御成道の成立について」『大日光』60号)。」) -
埼玉県立博物館. 埼玉県立博物館紀要 11. 埼玉県立博物館, 1985.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I11121116726371 (p102-103「このようにみてくると当初の日光御成道は、鳩ヶ谷宿を出て戸塚を過ぎてからは大門を通らず貝殻坂を下って釣上、笹久保と経て林道口から岩槻宿へ入っていたと考えられるのである。それでは、いつ頃から大門宿を通るようになったのであろうか。社参記録の上から通行したことが窺われるのは、八代将軍吉宗による享保十三年(1728)である。-略- 後に改めて考察するが、第一回から第十六回までどこを社参路として将軍が通行したか詳らかに記した史料は見当らないが、以上の若干の史料の記述から、戸塚から貝殻坂を下り釣上、笹久保を経て岩槻へ入る道(釣上通)が当初のルートであったと考えられるのである。事実、大門宿の成立は元禄十年(1697)であり、それ以前はある程度の宿の機能は果たしていたようであるが、道自体未整備であり、将軍の通行に耐えなかったのではないだろうか。」) -
大日光 (60). 日光東照宮, 1988-02.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000014217-d4416183 (43-45コマ(p67-71)「日光御成道の成立について」杉山正司
44-45コマ(p69-70)「さて、このように将軍社参は、その行程が不明な点が多いが、今日いわれる日光御成道、つまり川口-鳩ヶ谷-大門-岩槻(加倉口)-幸手という行程であったとされる。これは、いわゆる享保社参以降の行程記録から述べられているわけで不明である。これ以前の行程も同様であったとされているわけである。勿論、日光道中を通行し越ヶ谷宿から岩槻へ入った場合は除くとしても、当初からこの行程をとっていたかということについては疑問視される。すなわち、日光御成道を通行し鳩ヶ谷宿から岩槻宿へ入る場合、享保社参以前は大門宿を通行しなかったと考えられるのである。」)
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会田熊雄 [ほか]執筆 , 浦和市郷土文化会 編. 日光御成道大門宿. 浦和市郷土文化会, 1995. (浦和歴史文化叢書 ; 11)
- キーワード
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- 日光御成道
- 大門宿
- さいたま市緑区
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000377435