レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年1月31日
- 登録日時
- 2024/09/17 17:00
- 更新日時
- 2024/10/07 14:42
- 管理番号
- 中央-1-0021744
- 質問
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解決
チェコ・プラハの中世の庶民の暮らし・生活様式等(以下①~④)について知りたい。
①上下水道はあったのか(おそらく上水道はあったのではないか。下水道はなく、垂れ流していたのではないかとのこと)
②薪を使っていたのか
③街並みが赤い屋根で統一されているが、その街並みを作ったのは誰か(城主か)
④赤い屋根の材質は何か
- 回答
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回答プロセス○印の資料を紹介した。
- 回答プロセス
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<①上下水道について>
●棚を見る
○『水の歴史』イアン・ミラー/著 甲斐理恵子/訳 原書房 2016年
※プラハについて書かれている訳ではないので注意。
p33-34「汚かった中世の水」
中世の水問題について書かれているため参考として。
中世ヨーロッパの文化史などに、当時のトイレ事情、水事情など書かれていないだろうか。プラハが出てこなくても、参考にできるかもしれない。
○『水の征服』ジャン=ピエール・グベール/著 吉田弘夫/訳 吉田道子/訳 パピルス 1991年
p69 パリの中世のころの下水の様子が分かる。家庭排水は街路中央にある≪溝≫を流れて、下水口に流れ込み、これらの下水口は過去の遺産である何本かの下水道の一つとつながっていて、セーヌ河にたどり着く形になっていたそう。プラハの様子は分からないが参考として。
○『新上下水道なぜなぜおもしろ読本』大野春雄/監修 長澤靖之/著 小楠健一/著 久保村覚衞/著 ナノオプトニクス・エナジー出版局 2010年
p84-85「世界の下水道の歴史を教えてください」
プラハのことは書かれていないが、中世ヨーロッパでは下水道整備が行われておらず、垂れ流しであったことが書かれている。
○『チェコ歴史散歩 中世の面影を残す町々 第5版』沖島博美/文 武田和秀/写真 朝倉利恵/写真 日経BP企画 2010年
プラハが含まれる「第1章 中央ボヘミア」(p13-106)を中心に確認。
p16-22「カルルシュテイン城」
プラハの南西にある、十四世紀半ばにカレル一世によって築かれた城。
p19「カレル一世の寝室に使われた部屋には中世のトイレが残っていた。壁に張り出し窓をつけて床に穴を空けただけの空中落下式トイレ。」
●レファレンス協同データベースで検索する
類似事例あり。
「ヨーロッパの下水道の発展の歴史について書かれた本を見たい。」埼玉県立久喜図書館
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000210976(2024.10.1最終確認)
→上記を参考に以下の資料を取り寄せ・確認
○『図説排泄全書』マルタン・モネスティエ/著 吉田春美/訳 花輪照子/訳 原書房 1999年
p127-166「排泄物の処理、古代から中世まで」
主にパリを例に、中世での排泄物はほぼ垂れ流し状態であったことが書かれている。プラハについては言及なし。
○『水道の文化 西欧と日本』鯖田豊之/著 新潮社 1983年
プラハの様子は分からない。主にイギリス、フランス、ドイツ(たまにスイス、オランダ、オーストリアなどの他の国も)の上水道・下水道の歴史がまとめられている。一応参考として。
●Googleブックスで「プラハ 下水」で検索し、以下の資料を取り寄せ。
○『プラハの世紀末 カフカと言葉のアルチザンたち』平野嘉彦/著 岩波書店 1993年
p63-64 衛生上の問題から、プラハ市全域で上下水道の整備に力を入れていたことが書かれている。
p63「上下水道の整備にかなりの比重がかけられていたことが推測される。(中略)1890年代の初めには、全市にかなりの程度まで、下水道のネットワークが広がっていたものの、まだそこでは、下水や汚物を直接にモルダウ川へ垂れ流していたからである」
p64「1893年(中略)下水道整備計画がプラハ市議会で承認可決された。」
●インターネットで検索する
プラハの下水排水設備は19世紀末、1895-1906年に英国の技術者W.H.Lindleyによって建設された、という情報が出てくる。下水道ができたのは比較的近代に近いようだ。
<②薪について>
●棚を見る
○『中世ヨーロッパ生活誌』ロベール・ドロール/著 桐村泰次/訳 論創社 2014年
p34「室内の暖房も、例外的に泥炭を燃やした地域があるが、ほとんどは薪である。」
地域の言及はないがプラハもそうだったのだろうか。
○『チェコ歴史散歩 中世の面影を残す町々 第5版』沖島博美/文 武田和秀/写真 朝倉利恵/写真 日経BP企画 2010年
プラハが含まれる「第1章 中央ボヘミア」(p13-106)を中心に確認。
p85-87「プシェロフ・ナド・ラベム」
中央ボヘミア東部に残っていた古い民家を移築して開館した野外博物館。
p86「ボヘミアの基本的住居は居間と小部屋の間に出入口の土間(玄関)の三室構成になっている。中世では最初竈は暖房を兼ねて居間の中に置かれた。しかし煙が充満してしまうため次第に台所が独立するようになった。(中略)角に立つ納屋は1782年の穀物庫である。上げ底式で家屋の下を有効利用し薪や干し草を入れている。」
→中世では薪を使っていたと言えるのでは。
<③④赤い屋根について>
●棚を見る
○『プラハ歴史散歩-中世ヨーロッパの魅力を凝縮-第5版』沖島博美/文 武田和秀/写真 朝倉利恵/写真 日経BP企画 2010年
p87「見事に統一された赤い屋根瓦で大きな屋根もあれば小さな屋根もある。」
→屋根は瓦屋根のようだ。
○『チェコとスロヴァキアを知るための56章』薩摩秀登/編著 明石書店 2009年
p23「カレル4世は、プラハを神聖ローマ帝国の中心と位置づけて、整備に力を注いだ。たとえば、旧市街の周囲に新市街を建設した。」
→カレル4世が街並みに関係しているかもしれない。
○『物語チェコの歴史-森と高原と古城の国-』薩摩秀登/著 中央公論新社 2006年
p53-77「第三章 皇帝の住む都として カレル四世とプラハ」
p54「このカレルは、チェコのルクセンブルク王朝第二代の国王で、中世チェコ王国の最盛期を築いた君主といわれる。カレル橋やこの塔を含めて、プラハにはカレルの時代の遺産がいたるところにある。彼の統治のもと、プラハの街はその相貌を一新したといってもよい」
○『図説チェコとスロヴァキア』薩摩秀登/著 河出書房新社 2006年
p7 カレル四世に関する記述の中で、上記『チェコとスロヴァキアを知るための56章』と同じく、新市街の建設について書かれている。
○『プラハ建築の森』田中充子/著 学芸出版社 1999年
p60「第二番目の都市建設は、一二七五年、ヴルタヴァ川の左岸にオタカル二世によってつくられたマラー・ストラナの街である。」
赤屋根が特徴的な町並みは、マラー・ストラナっぽい。
赤い屋根の材質については言及なし。
○『プラハのアール・ヌーヴォー 壁装都市の歴史と栄光』田中充子/文・写真 丸善 1993年
p43「プラハの街は、カレル四世の十四世紀に、ほぼ都市の骨格ができあがっていた。」
赤い屋根の材質については言及なし。
○『地球の歩き方 中欧 2019~20』「地球の歩き方」編集室/編集 ダイヤモンド・ビッグ社 2019年
p52「逆にプラハ城から町を見下ろすと、赤瓦屋根の間に塔が林立し、“百塔の町”というプラハの異名を実感させられることだろう。」
→赤い屋根の材質は「瓦」
○『ヨーロッパの街並と屋根』向田直幹/著 クレオ 1995年
p86-87「チェコ」
写真のみで解説はないが、かなり拡大した写真もあるため参考として。
○『ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか』佐野敬彦/著 平凡社 2008年
イタリアの例だが、瓦の色がオレンジ系であることの理由が書かれている。
p46「オレンジ色は淡いアプリコットの色から濃いレンガ色に至るまでのさまざまな段階があり、屋根瓦や壁のレンガに見られる。鉄分を含んだ粘土のために、焼くと鉄が酸化して赤みを帯びた色となるが、地方によってその色は微妙な違いがある。(中略)オレンジ色の屋根瓦は古代ギリシャ・ローマ時代から用いられており、土地に鉄分を含んだ粘土という材料があったからであるが、なによりも空と調和するために好んで使用し続けられたのではなかろうか」
- 事前調査事項
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赤い屋根の街並みの様子は、『プラハ歴史散歩』沖島博美/文 武田和秀/写真 朝倉利恵/写真 日経BP企画 2010年の表紙のイメージ。
- NDC
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- 衛生工学.都市工学 (518 10版)
- ヨーロッパ史.西洋史 (230 10版)
- 西洋の建築.その他の様式の建築 (523 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- チェコ
- プラハ
- 水道
- 薪
- 屋根
- 生活様式
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000355609