レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年03月12日
- 登録日時
- 2023/12/27 18:16
- 更新日時
- 2024/11/29 14:39
- 管理番号
- 福郷-203
- 質問
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解決
西公園と遣新羅使の関わりについて書かれた資料があるか。
- 回答
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◇参考URL1「県営西公園再整備基本計画 本編」(https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/attachment/146562.pdf 2023.07.20最終確認)
福岡県HP>環境・まちづくり・県土づくり>都市計画>都市公園>県営西公園再整備基本計画を策定しました
p.8「4.歴史 (1)西公園の成り立ち<古代>」
「博多湾に突き出た丘陵地形を活かした外交の要所であり、遣唐使(けんとうし)・遣新羅使(けんしらぎし)らの旅立ちを詠った景勝地。」とあり、万葉集で、遣唐使・遣新羅使らの旅立ちや見送りの歌が詠まれたとの記述がある。
◆参考資料2『福岡県万葉歌碑見て歩き』
p.59-75「遣新羅使人の歌」
p.63に西公園の鵜来見(うぐみ)台展望所にある歌碑に関する記述あり。
◆参考資料3『月刊はかた』1989年5月号6号
p.80-83「万葉愛情物語 -荒津の袖の別れー」林田正男
「(前略)「荒津の崎」は、中央区西公園付近の海岸をいったもの。西公園は一名荒津山といい、その突出したみさきが「荒津の崎」と呼ばれていた。(以下略)」とあり、遣新羅使の一行の一人である土師稲足(はにしのいなたり)の歌碑が西公園の展望台にあるとの記述あり。
◆参考資料4『当仁風土誌』
p.57-98「西公園(荒戸山)」
p.84に鵜来見台の歌碑の記述あり。
◆参考資料5『福岡県史』第1巻上冊
p.421-「平安時代の外交」中、p.421-435「第一項 唐国との外交」
平安時代の唐・新羅との外交についての記述あり。
◆参考資料6『新修福岡市史』特別編[3]福岡城
p.14-「福岡築城」中、p.15-16「築城以前の景観と歴史」
「福岡城は東油山から赤坂山を経て北部の海岸近くまで伸びた丘陵先端部を利用して成形された。海に面するこの丘陵の先端部が「福崎」である。(中略)福崎の西には田島川(樋井川)が注ぎ込む広大な入り江(草香江(くさがえ))が広がっていた。入り江の西側の開口部が荒戸山であり、現在の西公園にあたる。福崎山には、外国使節を迎接するための「鴻臚館(こうろかん)」およびその前身である「筑紫館(ちくしのむろつみ)」が設けられていた。筑紫館の史料上の初見は『日本書紀』持統天皇二(六八八)年二月の条に見える新羅使饗応の記事である。(以下略)」とあり、遣新羅使・遣唐使についての記述がある。
- 回答プロセス
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①インターネットで調べる
キーワード「西公園 遣新羅使」にてインターネット検索。
参考URL1が見つかる。
②図書で調べる。
キーワード「歌碑」「万葉集」等にて自館検索および『福岡県史』にて平安期の外交について確認。
参考資料1-6が見つかる。
◆参考資料1『福岡県百科事典』下
p.336「西公園 にしこうえん」
「(前略)『万葉集』にも詠まれている景勝の地である。(以下略)」の記述あり。
p.859「万葉歌碑 まんようかひ」
「福岡県にゆかりのある万葉歌を石に刻んだ文学碑。(中略)歌の多くは大伴旅人(たびと)、山上憶良(おくら)を中心に大宰府の役人によって形づくられた筑紫歌壇の秀歌であり、また遣新羅(しらぎ)使一行が博多湾周辺に残した紀行の歌である。(以下略)」の記述あり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
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- 1 福岡県百科事典 下 西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部/編集 西日本新聞社 1982.11 (p.336,p.859)
- 2 福岡県万葉歌碑見て歩き 梅林 孝雄/著 海鳥社 2004.9 (p.59-76)
- 3 月刊はかた 1989年5月号 6号 (p.80-83)
- 4 当仁風土誌 仁校区自治会連合会並に社協当仁風土誌編纂委員会/編 当仁公民館[福岡市中央区] 1983.3 (p.84)
- 5 福岡県史 第1巻上冊 福岡市史編集委員会/編集 福岡県 1962.3 (p.421-435)
- 6 新修福岡市史 特別編[3] 福岡市史編集委員会/編集 福岡市 2013.3 (p.15-16)
- キーワード
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- 西公園 遣唐使 遣新羅使 万葉集 万葉歌碑 歌碑 筑紫館 鵜来見 荒津山
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000344112