レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年2月1日
- 登録日時
- 2017/02/01 13:52
- 更新日時
- 2020/05/15 10:27
- 管理番号
- 県立長野-16-057
- 質問
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解決
佐久の落合城を築城した落合兼行の一族についてと葛山近辺に居住した落合一族について資料を探している。その落合家から分家した香坂氏に関する資料を知りたい。
- 回答
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次の資料を紹介した。
1. 落合兼行の一族
・『角川日本姓氏歴史人物大辞典20』角川書店 1996【N288/158】
p.881の根井氏に「中世、佐久郡根々井(現 佐久市)におこった土豪に根井氏があり、滋野氏から分かれた望月氏系で、望月国親の子が根々井に移り、根井行親と名乗った。行親には七人の男子がおり、五男に落合五郎兼行の名があり、行親と共に木曽義仲の重臣として源義経と戦って戦死した。」との主旨の記載がある。
・『南佐久郡誌 古代・中世編』南佐久郡誌編纂委員会編 南佐久郡誌刊行会 1980【N223/61/1】
p.412に「根井氏が佐久市の根々井に来たのは根井行親の父望月国親からであるという。根井行親の子館六郎親忠・館行綱等は -(中略)- 行親の五男と推定される落合五郎兼行は佐久市落合にそれぞれわかれ住んだ。」との記載がある。
・『同書』p.473の(五)「落合五郎兼行の館跡」に、
「落合五郎兼行は、根々井にいた根井大弥太行親の子であろうと思われる -(中略)- 落合兼行の「行」は父親の「行」の字を使って名をつけていると思われること、さらに落合部落が根々井に近い事等からして、根井行親の子と推定される。」とある。
なお、『南牧村誌』南牧村誌編纂委員会編 南牧村誌編纂委員会 1986【N223/64】p.606-608「落合五郎兼行の館跡」にも、『南佐久郡誌 古代・中世編』と同じ内容がある。
落合兼行以降の落合家の系譜は見当たらない。
落合氏に関しては、以下に記載がある。
『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989【N283/13】 p.165-166
「鎌倉から室町時代の佐久郡、水内郡の土豪。本姓は滋野氏。-(中略)-兼行は佐久の武士であるが、のち、承久の乱後の新補地頭として、他の滋野氏系佐久衆と共に水内郡裾花渓谷に移った。」
と記載がある。
2. 葛山周辺に居住した落合一族
・『長野市誌 第8巻 旧市町村史編 旧上水内郡・旧上高井郡』長野市誌編さん委員会 長野市 1997【N212/318/8】
p.760-761 第15章 芋井 二 郷と荘園の広瀬荘に
「中世に佐久から移住したと伝えられる滋野姓の落合氏が領地していた。-(中略)-広瀬荘には、桜氏・上野氏・鑪氏・立岩氏などの武士がいて、「山一族衆」とか「葛山衆」と呼ばれ、落合氏がその中心であった。」
との記載がある。
・小林計一郎著 「葛山衆-ある戦国小武士団の歴史-」
『長野』 第12号 1967/03 p.1-19
葛山衆の歴史について掲載がある。落合氏についてp.2に「いまの芋井地区の七郷が落合氏の領地であったことがわかるし-(中略)-葛山衆はほとんど落合氏の一族だという。」との記載がある。
・山口久方著「芋井村史綱抄-付広瀬・落合氏考-」『長野』 第153号 1990/05 p.49-55
落合氏時代の記載があり、出自、入部の時期、定住地、他の開発、人口・経済、主な出陣等の記載がある。
・山口久方著「落合氏の本拠址」『長野』 第210号 2000/02 p.3-5
平安中期から弘治三年(1557年)まで治めていた落合氏に関する概要と広瀬荘域(芋井地域)に残る遺跡について記載がある。
・『角川姓氏日本歴史人物大辞典20 長野県姓氏歴史大辞典』
p.714-715に落合氏の記載があり、『長野県歴史人物大事典』に書かれている内容のほかに、長野市吉田の落合家が葛山城主落合備中守の直系ということで記載がある。
3. 分家した香坂一族
・立岩寧著「葛山衆 その足跡」
『置賜文化』 第88号 置賜史談会編 置賜史談会 1991【N288/141-1】 p.11-62
p.11に
「慶長四年(一五九八年)上杉景勝の会津移封に当り、信濃の葛山衆は、住み慣れた故郷の山々と別れ、-(中略)-米沢城下の屋敷割を待って、やがて表町(三之丸内北)に移った。」
と掲載がある。大部分の葛山衆は、米沢に移ったとされ、信州葛山衆・馬上二五騎としてp.49に「三百石 香坂太郎左衛門(葛山七騎の内)」の掲載がある。また、p.52-53の葛山に今も生きる落合備中守に
「平成元年(1989年)10月に、長野市芋井地区で落合備中守供養塔が建立され、葛山衆につながる子孫(上野・徳間・立岩など)も各地から駆け付けた」
という主旨の記載がある。
なお、『上杉家御年譜 23』米沢温故会 1986【210.4/117/23】 p.355-356に香坂太郎左衛門宗吉の略譜に
「信州葛山廿五騎之内 景勝公御代越後へ属ス」
との記載があり、米沢に移った香坂家の系譜の記載があった。同じく、p.351-355に武田家臣信州香坂城主の香坂能登守 定昌の系譜も掲載がある。
以下に落合領に居た武士に関して、
山口久方著「芋井村史綱抄-付広瀬・落合氏考-」『長野』 第153号 1990/05 p.49-55
p.52に「今の岩戸の地には、荘民の入居は許されなかったろう、地頭の威と安全を保つため(この地に領民が入居したのは、この落合領の総ての武士が上杉氏の会津への移封に従ってこの地を去った慶長三・一五九八からのちのことである。)」とあることより、葛山にいた香坂家は、会津に移ったと考えられる。
- 回答プロセス
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1. 『角川日本姓氏歴史人物大辞典20』、『長野歴史人物大事典』より「落合氏」を検索し、根井行親の5男と思われるとの記述があり、同じく「根井氏」を確認する。根井氏が、佐久郡根々井に起こった土豪とあり、『南佐久郡誌』、『南牧村誌』等を検索し、『南佐久郡誌』に根井の系図、落合兼行の館跡の記載を確認する。『姓氏家系大辞典』より落合兼行以降の系譜を検索するが見当たらない。
2. 当館検索機で「葛山衆」「落合氏」で検索し、『長野』、『置賜文化』第88号に葛山衆の歴史や芋井地域を落合氏が治めていた概要の記載を確認する。芋井地域が長野市なので『長野市誌』より葛山周辺を落合氏が中心に治めていた記載を確認する。『角川姓氏日本歴史人物大辞典20』に、葛山城主落合備中守の直系に関する記載を確認する。
3. 『置賜文化』第88号に葛山城の落城後の葛山衆が上杉家の家臣として米沢に移った香坂太郎左衛門の記載を確認する。略系譜として『上杉家御年譜』に記載があることが判明し、掲載を確認する。『長野』第153号に、落合領の総ての武士が上杉氏の会津への移封に従ってこの地を去った記載より香坂家も会津に移ったと判断した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 中部地方 (215 8版)
- 参考資料
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太田 亮/編 , 太田‖亮. 姓氏家系大辞典 第1巻. 角川書店, 1976.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I000024480-00 , ISBN 4040302109 -
太田 亮/編 , 太田‖亮. 姓氏家系大辞典 第2巻. 角川書店, 1976.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I000024481-00 , ISBN 4040302206 -
竹内理三 [ほか]編纂. 角川日本姓氏歴史人物大辞典 20. 角川書店, 1996.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002541302-00 , ISBN 4040022009 (【N288/158】p.881) -
長野県南佐久郡誌編纂委員会 編. 南佐久郡誌 古代・中世編. 長野県南佐久郡誌刊行会, 1985.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001779103-00 (【N223/61/1】 p.412) -
長野市誌編さん委員会 編 , 長野市. 長野市誌 第8巻(旧市町村史編). 長野市, 1997.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002667498-00 (【N212/318/8】p.760-761) -
米澤温故会 編 , 米澤温故会. 上杉家御年譜 第23巻 系図[等]. 米澤温故会, 1988.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I060518796-00 (【210.4/117/23】 p.355-356)
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太田 亮/編 , 太田‖亮. 姓氏家系大辞典 第1巻. 角川書店, 1976.
- キーワード
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- 家系譜
- 葛山城
- 落合氏
- 香坂氏
- 信州学
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000208502